【福音宣教】 湖上の嵐の中のイエス

2021年10月3日  ルカの福音書8:22-26

1. 湖の向こう岸へ

ガリラヤ湖のゲラサ地方へイエス様は弟子たちと共に船に乗り込み渡ろうとされました。
ゲラサの地はユダヤ人と異邦人が住む地であり差別を受けていました。イエス様は相手が異邦人であっても、異邦人が多く住む地域であっても分け隔てなく、神の国の福音を宣教するために自発的に出て行かれました。「私はどうしても福音を宣べ伝えねばならない」(ルカ443)からです。
イエス様の目には「人が人を分け隔てる」あらゆる差別や敵意や対立の垣根が存在しません。すべての人々が救いを必要としているからです。すべての人が創造主である父なる神の前には、かけがえなのない尊い存在であり、唯一の神に御国の民となる存在だからです。

2. 突然の嵐

弟子たちに身を委ねてイエス様は船の中で休まれました。連日、朝夕関係なく多くの群衆がイエス様のもとに押し寄せていました。そのためイエス様の家族でさえ近づくことができないほどでした(819)。イエス様も疲れてしばしば休息を必要とされました。そのため、ゲラサの地までの船旅を、ガリラヤ湖を知り尽くしたプロの漁師であった弟子たちの手に委ねたのでした。「眠ってしまわれた」(不定過去)と訳されているように睡眠墜落・爆睡状態に陥られました。 

するとガリラヤ湖特有の周囲の山からの強い吹きおろし(突風)が突然襲ってきたのです。ガリラヤ湖は周囲を山に囲まれた海面下212mのすり鉢状の地形の底にあり、湖面が急に荒れることで有名でした。嵐に巻き込まれた小舟は木の葉のように浮き沈み、弟子たちは荒れた湖面の波水をかぶって危険な状態に陥ってしまいました。

イエス様が行先を示して進むよう言われ、イエス様が一緒に乗り込んでおられ、かつイエス様から「あとは任せた」と船の操縦を託されるほどの安定した環境の中であっても、思いもよらない突然の嵐は襲ってきます。人間的な経験や知識、自分の力量だけではカバーしきれない、乗り越えることができない、「このままでは溺れて死にそうです! 滅んでしまいます、死んでしまいます」と叫ばざるを得ないほどの限界にまで追い込まれることがある。これが私たちの生きる現実の世界です。信仰者であるみなさんも、「あなたのガリラヤ湖の嵐」を経験なさったことがありませんか。しかも、そこにいてくださるはずのイエス様は深い眠りの中で完全に沈黙しておられる。万事休すという。

3. 主が立ち上がられる時

しかしその時、ついに主が立ち上がられました。嵐の轟音も顔にかかる波しぶきもイエス様を目覚めさせることはなかった。しかし、弟子たちが限界に達した時、心からの叫びをあげた時、主キリストはその声を聞き逃すことはなく、やおら立ち上がられたのです。そして弟子たちが立ち向かうことができなかった風に向かって、歯が立たなかった波に向かって、「黙れ、静まれ」と権威をもって命じられ、ガリラヤ湖のすさまじい嵐を沈められました。こうして「波も風もおさまり、凪になった」(24)。自然界の脅威さえも統べおさめる主イエスの権威がここに明確に示されたのでした。

4. 弟子たちに向かって語られた主イエスのことば

嵐がしずまった後、イエス様は弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(25)と問いかけました。マタイでは「信仰の薄い者よ」(826)、マルコでは「どうして信仰がないのか」(440)と、さらに厳しいことばが語られています。弟子たちはイエス様に対する信仰はもっているが、どうもまだうまく機能していない、働かないのです。                                 「信仰が必要な時に信仰を見失い、もっとも祈りを必要としているときに祈れない」(斎藤正彦)のは、私たちの現実といえます。

逆に言えば、思わぬ試練の中で、私たちの信仰が生きて働くようになる、つまり信仰に血が通い、いのちが通う恵みの時でもあると言えます。
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とイエス様は今も、私たち一人一人に、そして教会に問いかけておられるのではないでしょうか。たとえるならば自転車に急に乗ろうとしたら、鍵がかかっている。その鍵をどこに置いたかすぐに思い出せなくて、あちこち探しまわっている状態。やっと鍵を見つけたが今度はタイヤの空気が減っていてうまく乗れない、普段手入れしていないのでぺダルまで錆びついてギコギコ音を立て重くて踏めなような状態・・。私たちの「信仰のあるある」ではないでしょうか。

弟子たちはこの危機状態で慌ててふためいて「先生、先生」とイエス様を呼び起こしましたが、「先生」というギリシャ語言語は「尊敬と親愛の情を込めた」敬語と言われています。彼らはまだイエス様を「主イエス」とは呼びきれていない。イエス様の神の御子としての全能の権威を信じるまでにいたっていない。ですから「一体この方はどういう方なのだろう」(25)と、まだまだ半信半疑で戸惑っているのです。
イエス様の弟子となって、8章いたるまでにすでに多くのイエス様の力ある御業と権威に満ちたことばを見聞きしてきた弟子たちでした。ペテロの姑の癒し、重い皮膚病患者の癒し、中風の患者への「あなたの罪は赦された」(520)との宣言と癒し、異邦人である百人隊長のしもべの癒し、さらにはナインの村では一人息子を失ったやもめをあわれみ、息子をよみがえらせて母親の手に返す(715)という奇跡まで、彼らは見続けてきたのです。しかし、何度聞いても、何度見ても、何度経験しても、信仰は定着しない、居場所が定まらない。イエス様を「先生」と呼ぶことはできても「主」と呼ぶことができない・・まだリミッターがかかっており、限界の中にありました。

それは牧師である私でも同じです。だから私は「主に奇跡を求める」よりも、「お前の信仰はどこにあるのか」と、問いかけておられるイエス様のことばをしっかり聞きたいものだと最近、つくづく思うのです。

私たちは死にそうです、でも死にません。私たちは溺れそうです、でも溺れません。私たちは沈みそうです、でも沈みません。私たちは滅びそうです、でも滅びません。なぜなら、小舟のような私たちの人生に主イエスがすでに乗り込んでおられるからです。小舟のような私たちの小さな教会に主イエスはすでに乗り込み臨在してくださっているからです。私たちの中に聖霊による信仰がすでに贈り物として与えられています。これ以上、望むべきものは存在しません。神様が望まれるのは、「信仰に覚醒する」こと、「信仰のスイッチを入れること」が肝になる。眠っている信仰を呼び起こすことです。

そうすれば、主イエスがともにおられる小舟もかならず望む港に着くのです。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」(詩篇107:30)

5. 真の平安はどこに

イエス様はこの嵐の中でも安らかに眠っておられました。その秘訣は、イエス様は父なる神のふところにすべてを委ね切り、お任せになっておられたからです。それがイエス様の「信仰」でした。そこにキリストの平安の源泉があります。

私たちもそうありたいと願いますが、現実はどうでしょう。思わぬ困難や試練のなかで、委ねて神の平安に包まれ、安らかに眠れるどころか、目は血走り、興奮し、右往左往してあわてふためくばかりです。偽らざるありのままの姿と認めざるを得ないお互いではないでしょうか。

「委ねる」という私たちの信仰の出発点はどこにあるのでしょう。それは、「あなたの信仰はどこにあるのか」というイエス様の問いかけをいつも聞くことから始動します。平安の鍵は信仰にあります。その信仰を聖霊はすでに与えてくださっています。けれども信仰がどこかに隠れてしまっている・・。すぐに見つからない。動かせない。だから父なる神に委ね切ったイエス様の平安が、私たちの平安にならない。

だからイエス様は問いかけてくださっています。「あなたの信仰はどこにあるのか」と。信仰に血が通う時、イエス様を「先生」ではなく、「主イエス、我が神」と告白し、御国の王である主権者なるキリストに委ねることを学ぶのです。

ルカの福音書には次のことばが4度、記されています。「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ750

                                                                                                                                       以上

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