2021年11月14日 へブル11:8-16
今日は召天者記念礼拝そして初代牧師の田辺恵雄師の追悼会を兼ねて、共に集い、神様に感謝の礼拝をささげます。
先ほど召天者名簿を朗読させていただき、懐かしいお写真を見ていただいた方々はみな、「信仰によって地上での生涯を歩まれた人々」です。
へブル書にはアベルからサムエルにいたるまで、信仰に生きた16名の人々の名が記され代々の教会において語り継がれています。今日、お読みした40名の方々の名前が歴史書に刻まれることはほとんどないかもしれませんが、天に国籍を持つ者として、その名はいのちの書に記され神に覚えられています。
今朝は、信仰に生きた人々の3つの恵みを分かち合いましょう。
1. 神が喜んでくださっていること(6)
信仰を告白しバプテスマを受けて神の子どもとされた時の年齢も、信仰生活の期間も、天に召された時の年齢もさまざまです。しかし彼らは「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」(11:6)と記されているように「神様の大きな喜び」となったひとりひとりなのです。旧約聖書的な表現をすれば「宝の民」(申命7:6)なのです。宗教改革者のカルバンの教えに基づくウェストミンスター教理問答の第一条には「人生の目的とは、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」と記されています。神を喜ばせる何かをするというのではなく、何よりも信仰に生きる私たちそのものを「神が喜んでくださっている」こと、つまりDOINNGではなくBEINNG、「神が私たちの存在を喜んでくださっていること」を私の喜びとすることが強調されています。
2. 祈りの恵みを味わい知っていること(6)
6節には続いて「神がおられることと神を求める者には報いてくださることを信じなければならない」と教えられています。神が生きておられること、そして報いてくださること、つまり、私たちの祈りを聞いて、かなえてくださること、これは「信仰に生きる者たち」の特権といえます。生きておられる神を、イエスキリストを通して「父」と親しく呼び、語りかけ、祈り求めることができる、これこそ最高の喜び、恵みではないでしょうか。
私たちが信じる神は、死んだ神ではなく、生きておられ、共に人生を歩んで下るインマニヌエルの神です。神があなたの祈りにこたえてくださったことはどれほど多いでしょうか。多すぎて忘れてしまっているのではないでしょうか。「数えてみよ、ひとつづつ、数えてみよ、主の恵み」と聖歌172番にある通りです。
信仰は日々祈りに導かれる生活でもあるのです。癌の再発で若くして亡くなった姉妹が「人生の選択でいくつも失敗してきました。でも最後に私が宇治教会に来たこと、これは一番大きな成功でした」と、証しされたことを思い出します。祈りを通して神は導き続けてくださるのです。
3. 天の故郷を待ち望みつけていること(16)
信仰に生きる人々は、この目に見える地上の世界と生活がすべてではないことを理解しています。限られた人生を、神と隣人を愛して、教会と家族を愛して、神と共に歩み続けます。しかし、歴史に終わりがあり世界に終わりがあり、人の人生に終わりがあることを知っています。しかも人生の扉が閉じられる時はまさに、御子キリストにあって永遠のいのちの扉が開かれる瞬間でもあることを信じています。それゆえこの地上では「旅人であり寄留者」(13)として生きることを選び、過ぎ行く世のモノに固執しない、とらわれない、自由な心を大切にしています。なにしろ、旅人ですからリヤカーに荷物一杯積み込んで引っ張って歩くわけにはいきません。地に宝を積むよりは天に宝を積む喜びを知っているからです。
さらに、旅人には風の吹くまま、気の向くまま、あちこちさすらう旅人もいれば、遠いけれど一つの目的地をめざず巡礼者のような旅人もいます。信仰に生きる人々は、永遠の神の御国、神が住まわれる天の都を目指して、キリストと共に歩み続けます。
どこからきてどこへ行くのかわからなくなってしまいがちな人生において、歩むべきゴールがどこにあるのか、そしてそこで誰が待っていてくださるのか、今は見えない先に何が用意されているか知っている者は幸いです。信仰によって生きる者は幸いです。
「事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(16)