【福音宣教】12弟子たちの派遣と心構え<BR>

2021年11月21日 ルカの福音書9:1-6

イエス様は9章に入るといよいよ12人の弟子たちを町々村々に派遣しました。8章1節では、「12弟子たちもお供をした」(1)とあるように、神の国の福音を宣教しておられる中心はイエス様ご自身ですが、弟子たちがいよいよ独り立ちしていきます。リーダーは自分の回りに人を集め集団を形成し、支配権を持って人を動かすことを目的とするのでなく、ビジョンや目的を共有し、人を育て、人を派遣し、自立させていくことを目的とします。ある牧師は「100人の教会をつくるより、一人の後継者をつくる」と言われました。こころにしみることばでした。

イエス様に招かれた「弟子」(イエスに学ぶ者 マタイ11:29)たちはやがて「使徒」(遣わされた者 ルカ6:13)へと成長していきます。

1. 神の国の宣教

イエス様も弟子たちも宣べ伝えるメッセージは、共通して「神の国」の福音でした。

聖書では「神の国」という言葉は、一般的に考えられているような、やがて人が死んだら行く世界としてのあの世、天国あるいは極楽という「別の世界World」というよりは、「神による支配」、「神が王として支配する」現実を意味しています。しかもそれはキリストによってもたらされ、新しいいのち、神の生きた力、神のあわれみと慈愛として、人々が現実的に経験していくことができることがらを意味しています。つまり神の御子キリストがついにこの世界に来られたことによって、神の国はすでに始まった、幕があがった、そして現在もなお着実に拡大し進行しつつあることを指しています。神のご支配は、キリストの再臨の日に、完全に成就します。教会はその日まで、「地にもみこころがなりますように」(マタイ6:10)と祈り続け、待ち望み続け、世界中に「御国の福音」を宣べ伝える使命を果たすために存在しているのです。

イエス様が旧約聖書で約束されたメシア、キリストとして宣言された第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ115)でした。「近くなった」という動詞は完了形ですから「すでに来た」というニュアンスを含み、「神の国は実現しつつある」と訳すことができると言われています。イエス様自身も「私が神の指で悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ1120)と語りました。いつ神の国は来るのですかという質問に対してイエス様は「神の国は人の目で認めらえるようにして来るものではありません。・・いいですか。神の国はあなたがたのただなかにあるのです」(ルカ1720-21)と宣言されました。アブラハムが全世界に祝福をもたらす基とされたように、教会は全世界に祝福をもたらす神の国の真っただ中におかれ、サタンの闇の力を砕く霊的な戦いである福音宣教の最前列に位置づけられていると言えます。パウロは宣教師として召された時、復活されたキリストのことばを記しています。

「彼らの目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、私を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(使徒2618

2. 神の国の力

イエス様は悪霊を追い出し、あらゆる病を癒す、力と権威を弟子たちに授けました。イエス様の時代には、病は悪霊によってもたらされると信じられていました。したがって病の癒しは、単なる病気からの快復という意味だけではなく、サタンと悪霊の支配からの解放(神への背きと偶像礼拝という最大の罪と一人の例外も認めない死の支配力)という大きな意味をもっていたのです。キリストの権威と力が、サタンと悪霊の支配を切り崩し、無力なものとしていることの何よりの目に見える確かなしるし、根拠とされていました。それはキリストとともに神の国、神の恵みのご支配がすでに始まっていることの証明でもあったのです。

WHO(世界保健機構)は「身体・精神・社会・そして霊的(スピリチュアル)な良好な状態を健康」と定義しています。人間は身体的疾患の背後により深い実存的な問題を抱えて生きていることをこの定義は語りかけています。御子イエスキリストは、囚われ人を解放する権威と力を持っておられるお方であり、その権威と力は使徒たちから教会に託されました。神を侮っていた者が目が開かれ、神を礼拝する者とされ、死の恐怖におののき震えていた者が希望を抱いて神の国を見上げる者とされる。今日、教会において目の当たりにするその一つ一つが、まさにここに神の国の恵みが実現し、暗闇から光へ解放されている姿そのものなのです。

3. 神の国を伝える者の心構え

村々を巡り歩くために「余分なものを持つな」とイエス様は注意しました。パンも金も、つまり食料もそれを買うお金も不要と言われました。さらに、袋(スーツケース)をあれこれ準備するな、すぐに出かけよと命じました。さらに多くの地域を巡り歩くために二人一組で派遣したことも記されています(マルコ67)。 それは神の国の福音を喜んで聞いて受け入れる家がどの村にも町にも必ずあるからです。だからそこにとどまり福音を伝えなさい。そうすれば次の村へ行くだけの食料を用意してくれるからです。あの村のあの人を訪ねてほしい、そしてこの喜びの知らせをぜひ伝えてほしい、聞かせてあげてほしいとの願いが連鎖的に起こされるからです。それがイエス様が意図する、喜びの知らせの持つ力でした。

さらにイエス様は「父が私にお与えになる者はみな、私のところに来ます。そして私のところに来る者を私は決して捨てません」(ヨハネ637)と約束されています。父なる神様が見えざる御手で前もって一人一人をすでに導いておられる、招いておられるというのです。その町その村にその地域に備えておられるのです。

このことを忘れてはなりません。人間的な熱心さで伝道するのではなく、父なる神様の御手と招きつまり恵みの選びが先立っていることに不思議さがあります。

では、残念ながら誰も受け入れなかった場合はどうしたらいいのでしょう。足の塵を払ってその町から出ていき、次の町へと急ぎなさいとイエス様は教えました。「足の塵を払う」という行為は「自分のなすべき務めは十分に果たした。あとはあなた自身の選択と責任です」という抗議的な意思表示だそうです。つまり、福音の宣教は、一人でも多くの人に伝えることが優先されます。「聞いてなかった」という人がいないように。「なぜ、あの時、私に伝えてくれなかったの!」という人がひとりでもいれば、私たちが神の国はいるときの喜びは半減してしまうことでしょう。伝えても馬耳東風、馬の耳に念仏、猫に小判、豚に真珠と古今東西、大切なことがなかなか相手に伝わらないもどかしさが諺となって残されています。それでもあきらめずに伝えましょう。その時、耳を傾けないなら二度と語らない!!というのではなく、他をひとまわりしてまた戻ってくればいいのです。地球を一周りしてもまた戻って伝えればいいのです。

パウロもアテネでの宣教がうまくいかず、労多くして実りが少ない現実に気落ちしながらコリントの町に入り、またしても反抗され、ダブルパンチを食らっていたような時、主イエスの御声を聞きました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。・・・この町には私の民が多くいる」(使徒189-10)と。

神の国の福音は広がり続けます。弟子たちは「巡り歩き続けた」(未完了形)という動詞が主動詞です。来る日も来る日もまだ歩き続けました。教会も同じです。倦むことなく休むことなく神の国の福音を、主イエスと共に伝え続けるのです。私たちは、主の日の礼拝の場から主のことばと御霊によって遣わされていくのです。

                    伝道には困難と忍耐が必要なことは明らかです。でも、信じましょう。雨が降ったあとにこそ、虹が輝くのですから。                                                                                                      

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