【福音宣教】 5000人の人々へのパンの供給

2021年11月28日 ルカの福音書9:10-17

イエス様は12弟子たちに権威を与えて町々村々に神の国の福音を宣教するために遣わしました。帰ってきた弟子たちを休ませ、感謝の祈りの時を持とうとベッサイダの村に退かれました。ところがそこにも多くの群衆が押し寄せて来ました。その数は男性だけでも5000人に膨れ上がっていました。ベツレヘムの家畜小屋でマリヤとヨセフそして数人の羊飼いたちから始まったからし種一粒ほどの小さな神の国はいよいよ5000人もの人々も巻き込んで広がってきました。

1. 5つのパンと2匹の魚

夕方近くになってもイエス様のもとにやってきた群衆は帰ろうとしませんでした。弟子たちはイエス様に、解散させて各自で食事をとるように提案しましたが、イエス様は「あなたがたが彼らに食事の用意」をするように命じました。弟子たちが困惑して、200万円を出してパンを買ってきても全員に分けることは無理ですと答えました。するとその時、一人の少年が、母親が作ってくれたお弁当(大麦の5つのパンと焼いた小魚)をベッサイダ出身のアンデレに差し出し、イエス様に届けてくれるように頼みました(ヨハネ6:9)。

当然ながらお弁当を持参した大人の人たちも多くいたことでしょう。子供は素直に想いを表現しますが、大人はいろいろ考えてしまいます。「自分一人だけこそっと食べるには気が引ける。さりとてこんな大勢の人にまで与えることはできない。であれば、このまま黙っていよう」と。「一つの弁当をせいぜい4人で分け合うことができたとしても、こんな多くては無理。分ければ減る」という計算が働いてしまうのです。しかしこの「5つのパンと小魚」がイエス様の手に渡された時、5000人を十分に満たし満足させるほど豊かに分け与えられたのでした。「使えばなくなる、分ければ減っていく」というのがこの世の「数学」の常識ですが、神の国の「数学」は「分ければ分けるほど増えていく。与えれば与えるほど増していく」という祝福と恵みに満ちています。

1-1はゼロですが、イエス様にあっては1-1はα 無尽蔵になる。しかもイエス様の手に渡され、祝福され、分け与えられたときから始まるのである。差し出されるものはわずかなものであってもイエス様の手に渡されることが尊いのである。私たちも主の手に渡そう。自分の手に握っているのではなく。

2. 5000人の人々を満たした

この出来事を私たちは合理的な解釈をいれず、文字通り受けとめ、そして信じましょう。

たとえば合理的解釈とは、それまで食べないで持っていた各自のお弁当を、少年が惜しみなく差し出したのを見て恥ずかしくなってみんなで少しづつ出し合って分けて食べたという考えなどです。このほうが「なるほどあり得る話だ」と納得しやすいかもしれません。

英語には奇跡や不思議なできごとを表現する場合、信じがたい摩訶不思議なできごとをMIRACLE「ミラクル」といい、神のなさる大いなる御業を感嘆し恐れおののいて受けとめる場合をWONDER「ワンダー」と区別するそうです。聖書の中に記されているイエスによってなされた御業はミラクルMIRACLEではなく、ワンダーWONDERとして理解することが私たちキリスト者には必要です。イエスのなさった35の大いなる御業の中で4つの福音書すべてに記録されているのは、5000人の人々へのパンの給食、ひとつだけです。ですからこの出来事は、弟子たちにとっても特別な意味を持つ、大いなるWONDERとして心に刻まれていたと思われます。

私たちは聖書の神を信じています。このお方は天地を創造された全能なるお方、永遠なるお方、万物をご支配される力を持つお方、天使がマリアにはっきり告げた通り「神にとって不可能なことはひとつもありません」(ルカ137)。 このお方を信じなければ何を信じるのでしょう。私たちの小さな脳みその中にすっぽり収まるような神であれば、信じるに値しないといえます。ある牧師は「それは神ではなく、人間の理性を信じるに過ぎない」といいましたが、心に響きます。5000人どころか必要なら1万人でも100万人でも1億人でも、神にできないことはありません。

3. 12のかごに余りを集めた

5000人の人々が全員「食べて満腹した。そのあまりくずを集めたら12籠一杯になった」(12)ことが記されています。食いっぱなし食べ散らかしではなく、神のなさった良きこと、祝福と恵みは、最後まで大切にしなければなりません。この「籠」という言葉に対して皆さんはどんなイメージを抱きますか。背中に背負ってゴミくずを集めるような大きな籠を想像するかたもおられるでしょう。ユダヤ人の間ではクッパ―と呼ばれ、柳の枝で編み上げた籠で、旅行する際に、異邦人から食料を買わないで済むように肩にかけて食料を携帯するための籠だそうです。12籠というのは弟子たちが持っていた籠の数でした。

つまり、パンのあまりを弟子たちはクッパ―に集め、次の宣教旅行に備えたのでした。イエス様はこののち、異邦人が多く住むデカポリス地方で、再び異邦人を対象にして4000人への人々に同じようなパンの奇跡を行われました(マルコ81-9,マタイ1532-39)。

2回もパンの奇跡を行ったイエス様の意図は明らかです。

一度目は5000人のユダヤ人に人里離れた荒野でパンの奇跡を行い、二度目は4000人の異邦人たち、しかも3日間も食べるものをもっていない(マタイ1532)人々に対してパンの奇跡を行われました。その目的は、「彼らの必要を満たす」ためでした。イエス様は主の祈りの中で「日々の糧を与えてください」(マタイ611)と祈ることを教えてくださいました。
2000年前の時代、食料がありあまるほど豊であったとは思えません。日毎の糧こそがいのちをつなぐために最も大きな祈りの課題でした。現代とは必要な対象が異なっていたのです。飽食の時代と言われますが、日本人が一日に三度食べる習慣は昭和になってから、しかも毎日廃棄される残飯が
10トン大型トラック1640台分にもなるそうです。世界的に見ても生産される食糧の1/3が先進国中心に食べられるのに廃棄されている。そんな時代に生きる日本人に「日ごとの糧を与えてください」という祈りはピンと来ないかもしれませんが、彼らには最も切実な願いでした。パンの奇跡はまさに「いのちをつなぐ生活の必要を満たしてくださる」神の恵みの御業そのものであったのです。

現代人は肉体の糧よりも心の糧に飢え渇いています。貧しい人々は互いに助け合いながら生きていますが、富める人々ほど孤独の中で生きているのは皮肉です。物に満たされていても魂は渇いています。コロナ禍の中でますます人々は絆を失い、孤立と孤独の中におかれてしまいました。ましてや神から遠く離れた人々の虚しさはいかばかりでしょうか。

イエス様は「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:35)と言われました。また人はパンだけで生きるのでなく神のことばで生きる特別な存在であることを教えてくださいました。魂の糧の必要性はパンよりもさらに高いのです。そして御国の王であるイエス様だからこそ、ともに満たすことがおできになるのです。

すべての必要を満たしてくださる全能者、あわれみに満ちた神がおられ、「生活と魂の必要をことごとく満たしてくださる」という神の恵みを、パンの奇跡は私たちに教えています。そしてこの御国の恵みは、主イエスから弟子たちに、そしてのちの時の教会に、「あなたがたが与えなさい」(13)と託されていることをいつも覚えましょう。

                                           ピリピ4:19 栄光の富をもってあなたがたの必要を満たして下さる

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