2021年12月5日 ルカの福音書9:18-22
9章に入りいよいよイエス様は弟子たちに神の国の権威と力を与え、神の国の福音を宣教するためにガリラヤ周辺の町々村々に派遣しました。その後、集まってきた5000人以上の群衆のために、たった5つの大麦のパンと小魚を用いて、満ち足りるほど彼らの空腹を満たしました。神の国の民の必要を必ず満たす、神の国の王として、力あるみわざを示されたのでした。もちろん石ころをパンに変える奇跡を行うこともできましたが、イエス様は神の民と共に働くことを喜ばれ、少年が差し出したお弁当を豊かに用いることを選ばれました。とるに足りない小さなものを用いることはイエス様の喜びでもあるのです。
さて、今日の箇所では、イエス様は、弟子たちをいよいよ信仰告白の中心へと導いてゆかれます。
1. 信仰の告白
イエス様が「群衆は私のことを誰と言ってますか?」(19)と弟子たちに尋ねると、「ヘロデ王に首をはねられたバプテスマのヨハネだ」とも、「旧約時代の偉大な預言者エリアの再来だ」とも「他の預言者の生まれかわりだ」とも噂していますと答えました。するとイエス様は「ではあなた方は誰だと言いますか」と尋ねました。思うことと言うことは違います。言葉にして話すことと告白することともやはり違います。告白することは、思っていること以上のこと、言葉で言い表す以上のことを意味します。そこには「信じる」というゆるぎない決意が込められているからです。「われ信ず」ここからキリスト者としての歩みがはじまるのです。イエス様は思い付きで、その場の流れでこの質問をされたのではありません。18節に「一人で祈っておられた時」とあるように、イエス様の祈りが奥にありました。イエス様の深い御心があったのです。それは信仰の告白(20)と福音の啓示(22)という形で明らかにされていきます。
2. ペテロの告白
他の弟子たちが顔を見合わせ言いよどんでいる時、ペテロが「神のキリスト(メシア)です」(20)とはっきりと告白しました。これは驚くべき告白でした。人間的には考えられない告白でしたから、イエス様はマタイ16:17では、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いだ。このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく天にいます私の父です」とペテロを祝福されました。父なる神様がペテロに真理を明らかにしてくださった、ペテロが父なる神と交わりを持つことができるように導かれたことを喜ばれたのでした。単にイエスの弟子のひとりとしてだけではなく、父なる神との交わりに生きる者とされたことをイエス様はなによりも喜ばれたのでした。
ナザレの大工ヨセフのせがれイエスが、旧約聖書で約束されていたメシアであること、母がマリヤで6人の弟や妹がいる(マタイ13:55)あのイエスが、ダビデの血筋の中から誕生すると預言されていたメシアであるなどと、いったい誰が告白できるでしょう。
しかもこの時代、自分はメシアだと名乗る偽救世主メシアが多く現れました。彼らは群衆が期待しているようなユダヤ国家を再興するために武力蜂起して、ローマ軍に勝利し、ローマ帝国の支配を打ち破ると豪語して、群衆を扇動するような運動が各地で起きていました。しかし、彼らはことごとくローマ軍によって反逆者として鎮圧され、暴力による対抗運動はことごとく鎮圧され、指導者は殺され、多くの血が流されてしまいました。
使徒5:35-37で穏健な学者であったガマリエルは議会において、武力で神の支配を求めて武装ほう起したチュウダやガリラヤのユダたちの悲惨な結末を語り聞かせています。
そんな時代の雰囲気だったからこそ、イエス様は群衆の軽はずみな言動を避けるために、さらに、まだ弟子たちが神のご計画を十分理解できていない今の現状では、「誰にも話すな」と厳しく命じたのでした。
心にとめなければならない点があります。信仰告白に導いた後、イエス様はペテロの信仰告白を共有する弟子たちに、メシアの秘密を伝えました。それは神の国の福音の中核そのものでした。
「苦難を受け、殺されるが、三日目には復活すること」(22)。これらのことばはすべて「ねばならない」と告げられ、かならず起こる必然的な神のご計画であることを語りました。後にパウロがもっとも大切なこととして、これこそが「福音である」と伝えています(1コリン15:1-4)。
つまりメシアは目に見えるユダヤ国家を再建する王として来たのではなく、十字架の死と復活を通して、この世を究極的に支配しているサタンと悪霊による古き闇の世を打ち砕く、御国の王として来られること、すでに来られたことを初めて弟子たちに告げたのでした。 残念ながら告げられた弟子たちは、この時点ではまだ、なんのことやらさっぱり理解できなかったことでしょう。彼らも徐々に目が開かれていったのです。多くの失敗や過ちを重ねながら。
3. 教会の告白
多くの人々がイエスキリストの名は知っています。クリスマスがキリストの誕生を祝う日だとはわかっています。もっとも一般人にはサンタクロースの誕生日だと思っている人もいるようです。子どもたちには「ケーキをたべる日」になっています。メリークリスマスと「クリスマス」を祝うけれど、「イエスキリスト」の誕生を祝うことには結びつきません。もっとも私たちクリスチャンが釈迦の誕生日が4月8日とされ、灌仏会・花まつりと呼ばれていることをほとんど知らないのと同じことかもしれませんが・・。
しかしながら、「イエスを誰と信じ、誰と告白するか」これは、人生における重要なターニングポイントです。ある牧師は「この問いの答えが私たちの永遠の運命を決定的にする」(岸)とさえ語っています。
イエス様のもとへ近づく人は多い、しかし信仰の告白への一歩が、最後の一歩が遠いのです。
信仰の告白は、人間ができることではない。イエス様のことばでは「父なる神が明らかにされる」ことです。パウロのことばでは「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白できない」(1コリント12:3)のです。
だからこそ、ここに「教会の祈り」があるのです。その最後の一歩を支えるのは「教会の祈り」ではないでしょうか。
「父よ、彼らに真理を示してください」「御霊なる主よ、彼らの心を開いてください」と、私たちは祈るのです。日曜日の礼拝ごとに私たちは「使徒信条」を共に告白します。この告白を自動的に「お題目や念仏」のように、繰り返し唱えているだけではなりません。
この時、もし教会に求道中の方がおられるならば、「御霊のお働きが今ここでありますように」との祈りをこめましょう。あるいは導こうとしておられる方を念頭に覚えつつ「父よ、この告白をともに捧げる日が来ますように」との祈りをこめましょう。
「あらゆる舌がイエスを主を告白し、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:11)これこそが教会の祈りであり、礼拝の完成(栄光)ではないでしょうか。