2021年12月26日 ルカ2:13-20
2021年の最後の礼拝の日となりました。この1年は激動の1年でした。
クリスマスには50名近い方々が集いました。12月25日が終わればクリスマスが終わるわけではなく、クリスチャンにとっては1年365日がすべてクリスマス、つまりその名はインマヌエル「神が我らとともにいます」(マタイ1:23)と呼ばれる御子キリストが共に歩んでくださる日々です。年末にあたり、その後の羊飼いたちに焦点をあててみましょう。
1. み使いの知らせを聞いた羊飼いたちはみどり子を「探し当てた」
ここには、羊飼いたちが熱心に「救い主を捜し求め、見出す」姿が描かれています。
小さな村(500軒2000人ほど・松木祐三)であっても、飼い葉おけに寝ている赤子を捜しだすことはなかなかたいへんなこと。ましてや牧場主から預かっている大切な羊たちを野原に残したままですから、その間に獣に襲われたり、盗賊に奪われたりしたら一大事です。のんびり捜してる暇はない。急いで駆け出し、村中を走りまわって「なんとしても見つけだそう」という強い決意をもって、ついに「探しだした」(不定過去形)のでした。
やがて東方の国からはるばる3000kmもの砂漠や荒野を超え、ユダヤの国まで旅をし、星に導かれてベツレヘムにまで来た博士たちの決意も並大抵のものではありませんでした。
救い主を探し出すこと、それはほかのなにを差し置いても優先すべき価値のあることです。
後にイエス様は真珠商人のたとえ話(マタイ13:44)をされました。高価な一つの真珠を見つけたなら、他の真珠や宝石を全部売り払ってでも惜しくはない、なんとしても手に入れることが強調されています。
それほど「価値のある」ことだからです。あなたにとってまことの救い主であるキリスト羊飼いたちは、天使から「行ってきなさい」と命令されたわけではありません。「見て、来よう」と自発的に自分の意志で決心して、急いで駆け出したのです。
スイスの優れた思想家ヒルティは、「信仰とは知識や認識の問題ではなく意志の問題」だと語っています。世の中に多くの神々があるけれどまことの救い主を尋ねだそう。そして見つけたなら何があっても信じ、信頼し、従っていこうと心に決めることです。それが神様が与えてくださった信仰という最高のプレゼントを大切にしていくことなのですから。
2. 神を崇め、賛美しながら帰って行った
羊飼いたちにとって、忘れられない感動的な夜でした。新しい1日の始まりでした。御使いがあらわれたこと、神の御子の誕生という大きな喜びの知らせ【福音】が伝えられたこと、 ユダヤの国の王の誕生ではなく、「あなた方のための」救い主だと励まされ大きな希望をいただいたこと。さらに天の軍勢があらわれたこと、マリアやヨセフには天使ガブリエル一人だけが現れたが、羊飼いたちには軍勢となって現れた。そして「天使たちの賛美を聞いたこと」です。さらに布にくるまれて眠る、貧しい無学で無力な自分たちを最初に招いてくださった救い主にお会いすることができたこと。
何もかもが天使の告げた通り(20)だったのです。もう「神をあがめる」しかなかった。他になにもできない、する必要もない。ただ神を崇めるしかない、ほめたたえるしかない、賛美するしかないのです。これは信仰生活のゴールといっても良いでしょう。究極において、「感謝と賛美」しかない。それが信仰の歩みです。 神様のためにあのことをしよう、このことをしようと願います。神へのご奉仕はすばらしいことです。しかしそれ以上に、「ただ神をあがめるしかない」「神に讃美をささげるしかない」 これは究極のゴールといえます。
「すべてのことについて感謝しなさい。これがキリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:18)
ところで、彼らは「どんな賛美を歌ったのでしょうか」。彼らに作詞作曲する力などはありません。彼らは「天の軍勢が賛美した賛美」(2:14)を繰り返したのではないでしょうか。
「いと高き所に栄光が神にあるように。地の上に平和がみこころにかなう人々にあるように」(14)。天上においては天の軍勢による賛美が、地の上では羊飼いたちの賛美が響き合ったのでした。神のみこころにかなった人々の間から、「地に平和あれ」との賛美が満ちたのでした。
天に栄光、地に平和。 これは教会とクリスチャンの生涯の歌 でもあります。そして、平和は、神様との和解から始まり、神様との和解は御子キリストの十字架の死によって成就しました。ですから、教会は賛美し続けるのです。御子イエスキリストの十字架の恵みを、十字架の愛を。 教会はこの歌を歌い続けていく讃美の群れです。
ロマ 5:11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
第二コリント 5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
彼らが賛美しながら帰って行った場所は、いつもの丘の野宿しながら夜を過ごす、羊飼いたちの丘でした。現実のおかれている場所や環境や働きはいつもと何もかわりません。次の日も、また次の日も、同じ場所で、同じ仕事を繰り返しました。しかし、彼らの人生と魂は大きな変化を遂げました。社会的な立場はただの羊飼いにすぎません。地位も名誉もお金も住む家さえありません。けれども彼らは神の御子、救い主キリストを礼拝し、神を崇め、神を賛美する、まことの礼拝者、神の御国の民とされたのでした。 彼らにとって置かれた場所が「神の国」そのものだったのです。
宇治バプテスト教会もまた、神の御子の恵みを、十字架の愛を歌い続けていく群れとして、新しい年も共に歩みましょう。
主に栄光を帰します。