【福音宣教】 あなたの信仰があなたを救った

2021年10月31日  ルカの福音書8:40-48

ガリラヤ湖対岸の異邦人の地ゲラサから再びカペナウムに戻られたイエス様を住民はよろこんで迎えました。ユダヤ教の会堂管理者ヤイロが、家に来て娘の病気を癒してほしいと願ったためにヤイロの家に向かう途中、群衆がひしめき合っているただ中で、後ろからそっとイエス様の衣のすそに触った女性がいました。彼女は12年間、婦人科系の疾患で人知れず悩み苦しんでいた女性でした。

1. 長血の病

彼女は婦人科系の疾患(月経過多、不正出血)のため、マルコによれば多くの医者にみてもらったが治らず、「ひどい目にあって」「財産を使い果たしてしまった」(マルコ526)と記されています。

12年もの闘病と治療で財産を失っただけでなく、結婚もあるいはもし結婚していたら妊娠出産も諦めていた可能性が高いと考えられます。しかも旧約聖書では「汚れた者」(レビ15:25-26)とみなされ、人との接触が禁じられており、神殿にのぼることも赦されていませんでした。長血の女性が座った椅子に座れば自分も汚れるとみなされていた時代です。病気のために多くのものを失ってしまっただけでなく、いつ治るかさえわからないまま、将来に希望をもつことができない孤独な日々を過ごしていたことでしょう。彼女は病気と共に普通の社会生活からの疎外という2重の苦悩を負っていたのでした。

2. 後ろからではなく御顔の前に

多くの群衆がひしめき合っている中であれば、誰にも気づかれずイエス様にそっと近づくことができるだろう、神の御子キリストならきっと癒してくださるに違いないと彼女は信じ、期待し、勇気を出して近づきました。そしてイエス様の衣の房にさわったとたん、長血がとまったのでした。このまま黙って立ち去ることもできました。ところが、イエス様は「誰かが私に触れた、力が出ていくのを感じた」(45-46)と言われ、見回しておられました。

国際的な映画スターや歌手が外国から空港に着くと、出口に熱狂的なファンが殺到して大混乱になっている光景が報道されます。中には興奮して気絶してしまう人もいます。少しでも近づきたい、タッチしたい、同じ空気を吸いたいとさえ思うそうです。演歌系の舞台俳優などは時代劇の場合、ふところに和紙をたくさんいれておいて、汗を拭いたて紙を観客に向かって投げるそうです。そうすると、「〇○様の御汗」と取り合いになるそうです。
それこそイエス様は群衆に取り囲まれひしめきあう群衆の中でもみくちゃにされていたことでしょう。でも「信仰によって触った」者がいることを知っておられました。群衆の中にひとりだけ「信仰によってイエス様に触った」者がいることを。しかも「私のような汚れた者でもせめて衣の房にでも触らせていただければ、癒される」と信じて、謙りつつ、触れた者がいることを見逃しにはなさいませんでした。彼女は病でやせ細った腕で、12年間の祈りをこめて、触れたのでした。
無力な者、小さき者の祈りをもイエス様は心に止めてくださいます。もちろんイエス様は黙って彼女を去らせることもできたはずですが、そうなさいませんでした。そこには、イエス様のご配慮がありました。彼女が後ろから隠れてではなく、イエス様の御顔の前に進み出ることを待ちました。

彼女は隠しきれないと思い、ふるえながらイエス様の御前に進み出て、ひれ伏し、ことの次第を告白しました。ひしめきあう群衆に取り囲まれ、群衆の視線が冷たく彼女に突き刺さるそのただ中で、彼女は「自分が長血をわずらう汚れた者であること、イエス様なら救ってくださると信じていること、イエス様の衣の房にさわったこと、たちどころに癒されたこと」を語ったのでした。彼女は自分の恥も信仰も、神の御子イエス様の御前でありのまま告白したのでした。

3. あなたの信仰があなたを救った

イエス様はその時、彼女に向かって「あなたの信仰があなたを救った。平安のうちに行きなさい」と語られました。Your faith have saved you  現在完了形が用いられていますから、「あなたは今救われた、そしてこれからもずっと救われている」という趣旨です。

考えれば彼女は黙って立ち去っても良かったかもしれません。自分の恥ずかしい身の上を大衆に知られてしまうことを避けることもできたでしょう。そのうえ、イエス様は「食い逃げは許さない」と叱責されるようなお方ではありません。考えてみましょう。「不浄の女」と社会的に差別されていた彼女が完治したことをいったい誰がどう、公けに証明できるでしょうか。イエス様は公衆の面前で彼女の「病の完治」を宣言し、社会的な復帰の道を、つまり神殿における礼拝への出席と人々との交流という回復をもたらしてくださったことがわかります。イエス様の配慮としかいいようがありません。

さらに、長年にわたって苦しめられた病が癒されたというだけの話で終わりません。

「平安のうちに行きなさい」(eis eireinen)という「キリストの平安」が彼女にもたらされた救いの中心にあることを覚えましょう。

長血は回復したかもしれない。しかしほかの病気が彼女を再び苦しめるかもしれません。財産をすべて失ってしまった彼女はこれから極度の貧しさに耐えて生きていかなければなりません。彼女の前途にはまだ見ていない、経験していない、多くの困難が待っているかもしれません。しかし彼女の身に何がおころうと、彼女の将来になにが待ち構えていようと、「御子イエスキリストへの信仰」と「信仰からくる平安」が失われることはもうけっしてないと言えます。これからも信仰と平安が彼女を守ってくれることでしょう。これが救いの中核なのです。

ロマ51「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」神との平和それはキリストのくださる平安です。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

よみがえられたイエス様が弟子たちに真っ先に語られた言葉は何だったでしょう。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:28)と言われた。」

それは平安でした。彼らはまだイエス様を十字架につけて死に至らしめたユダヤ教指導者やローマ総督らを恐れていました。ですから戸を閉めて鍵をかけて閉じこもっていました。ところが、わずか数センチのうすっぺらい木の扉で一体何が防げるでしょう。苦難や恐怖を防げるような扉は損愛しません。御子イエス様が与えてくださる平安のみが私たちを守るのです。今週のみ言葉は詩篇17:8-9「瞳のように守り、御翼の陰にかくまってください」です。まぶたは全身の筋肉の中でもっとも敏捷に動く筋肉です。瞬時に瞳を守ることができるのです。鷲の母親は翼を広げひなをおおおって外敵から守ります。雨風や雪からひなを守ります。

神様抜きの生活にどんな平安があるでしょうか。救い主キリストの十字架の赦しと復活の勝利を知らない人生に、どんな平安と希望があるでしょうか。

平安ということばは「大丈夫」という日本語に置き代えることもできます。丈夫は「立派な男子」から「あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま」を指すようになりました。イエス様が「平安あれ」と語りかけて下さる人生、「大丈夫だ」と守ってくださる人生こそ、私たちの喜び、救いではないでしょうか。

「誰かが私に触ったのです。私から力が出ていくのを感じたから」(46)。平安こそイエス様が与えてくださる救いの力ではないでしょうか。

                                                                                                                                    

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