2022年1月9日
コロナウィルス・ミクロン株による感染急拡大が起きていますので、皆様とご家族の健康が守られますように心からお祈り申し上げます。
ペテロがついに「あなたは神のキリストです」とイエス様への信仰告白へと導かれた時、イエス様は、神から遣わされたキリストが歩む道を弟子たちに明らかにされました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして3日目によみがえらねばならないのです」(22)と。つまり、これからイエス様が歩む「カルバリの丘での十字架の死と復活」について語りました。ここで伝えられた4つの出来事「苦難を受け、捨てられ、十字架で殺され、よみがえる」はすべて1度限りの決定的出来事を指す動詞の用法(不定過去形)が用いられていますので、すべて必ず起こらなければならない「神のご計画」であることが示されています。
当時の人々が期待していた政治的メシア像すなわち、ユダヤ民族を支配しているローマ帝国とそこに君臨している皇帝を武力で打ち破り、神の民であるイスラエル民族の神聖国家を樹立する王なるメシア・キリストとは全く異なるものでした。人は期待が大きければ大きいほど、期待が外れた時には失望も大きく、怒りさえ抱くようなります。この時を境に、イエス様への反発はますます強まり、イエス様に失望する者たちも多くあらわれてきますが、イエス様はいよいよ決意を秘めて十字架の道を歩みだされました。
マタイ福音書では信仰の告白に基づいてイエス様が「この岩の上に私は私の教会を建てる」(マタイ16:18)と、神の奥義である「教会」の誕生と基盤について記されていますが、ルカ福音書では省略されています。むしろルカは、「イエス様の弟子の歩む道」(23)について書き出しています。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)
If anyone desires to come after Me, let him deny himself, and take up his cross daily,and
follow Me.
1. 私について来たいなら
2つの条件が記されています。「自分を捨て」、「自分の十字架を負う」という2つのの動詞は不定過去形ですから「毅然とした覚悟」「信仰的な決断」を示しています。一方「ついて来い」は現在命令形ですから、従い続けていくことを意味しています。動詞を比べるだけでもめりはりがきいていることがわかります。だらだらと徐々に少しずつ、周りの様子を伺いながら、決心していくのではなく、信仰には「今、この時、この瞬間に」という神の招きに応じる、決断の時がある。その後は、生涯、いつまでもイエス様に従い続けていくのです。欧米には「いつかそのうちにという汽車は、遅すぎたという終着駅に着く」ということわざがあります。信仰の扉は思い切って開くものです!。BELIEVE IN (信じる)はDIVE IN(父なる神の御腕の中に飛びこむ)ことです。しかもその後は、イエス様が「ついて来い」と招き続けてくださるから、「はい」とお供をしていくのです。歯をくいしばってイエス様に従い続けるという悲壮なイメージではありません。
「捨てる」(aruneomai)は「縁を切るあるいは自分を否定して」という意味になります。十字架を負うには自分を捨てることが前提条件になります。自分を大事にし、自分にとらわれていれば、あるいは自分を世界の中心に置いていれば、十字架を取れない、選べないのです。
自分が自分がといっている自分を少し脇におけば、欲もプライドも損得も恥も見栄からも自由になり、思い切った選択ができるものです。終戦まじか、若者たちを特攻機で出撃させるための名簿づくりを命じられた小隊長がいました。若いパイロットたちの顔を思い浮かべ、帰りを待ちわびる故郷の親たちのことを思うと、悩み続け、夜があけてしまったそうです。その時、彼は名簿の一番最初に、まず自分の名前を書きこみました。すると一緒に出撃する若者たちの名前を書くことができたそうです。自己否定、自己犠牲などと大げさに考えず、少しだけ自分を脇に置いてみれば、世界が違って見えてきます。悩みも迷いも拭っきれていくものです。
2. 日々、十字架を負うて(23)
第二は「十字架を負う」です。ルカだけが「日々」Daily と表現しています。「十字架を負う」とは、ローマ帝国に対する反逆者たちが、死刑囚として、十字架の木を背負って死刑場に向かって歩いていく姿を指します。ですから、他の人が経験しないような「試練、困難、苦しみ、痛み」を背負わされて生きる悲壮感漂う悲劇的なイメージでとらえてしまいがちです。重い病を抱え「この苦しみは私の十字架だ」と話された兄弟がいました。ところが、イエス様にとって「十字架を負う」とは、神のご計画に基づいた使命の道を歩むことでした。罪びとさえも隣人と呼び、その隣人を愛する究極の愛の在り方が十字架でした。それは神の御子であるイエス様にしか負うことができない十字架でした。カルバリの丘に続くドロローサの坂道でついにイエス様が力尽きてしまった時、そこに居合わせたシモンが丘の上の死刑場までイエス様の十字架を代わりに背負って運ぶことになりました。しかし、イエス様に託された父なる神様からの使命までシモンが背負ったわけではありません。イエス様がこの世界に遣わされた目的、イエス様にとっての生きる意味、果たすべき自分の使命、それが「十字架」でした。
それゆえ、イエス様の弟子となって生きることを願う者たちもまた、それぞれが「神様から託された自分の使命、役割、生きる目的や意義」を、日々自覚しながら歩み続けることが「日々、自分の十字架を負う」という意味になります。
あなたが神様から託されたあなたの様々な賜物や能力や知識、技術、与えられた富さえも、すべてをイエス様が願われた「神の国」の完成ために用いて生きることが、十字架を負うて生きる、新しいあなたの人生になります。これは年齢に直接関係ありません。イエス様はぶどう園の譬え(マタイ20)を話されました。ぶどうの収穫期に、ぶどう園で働く人々が足りないため、農園主は早朝と9時に、お昼と3時に、さらに夕暮れまじかになっても人を集めて働いてもらおうとしました。さらに驚くべきことに、労働時間にかかわらず同じ額の賃金が支払われたというのです。救いに招かれる年齢だけではなく、神の国のために働くという使命にも年齢の制限はないことを教えています。クリスチャンに卒業はなく、生涯現役です。仕事がなくなれば天国へ行くときです。晩年になって新たな使命が与えられる方も多くおられます。もし使命を与えられた人々が老人であれば、神様は支援してくれる若者たちをそのそばに集めてくださることでしょう。モーセに、エジプトで苦しむ私の民を救い出せという神様からの仕事が与えられたのは、80歳を過ぎてからでした。口下手なモーセには雄弁な兄アロンが、体力の衰えたモーセにはヨシュアとカレブという若者を神様はそなえてくださいました。
先日のテレビ番組で、ある塾の講師が、貧しい生徒が食事をしてないことを知って一杯200円のカレー専門店を塾とは別に開きました。賛同したお客がもう一皿分のチケット代を払い、お店の壁にそのチケットを貼っておく。お金のない親子はその無料チケットを使って一皿のカレーを食べる。毎日のように店に来て一杯のカレーを食べていた中学生が、卒業して初めて給料をもらった時、久しぶりに店を訪れて、自分もまた、他の貧しい子供たちのためにとチケットを買って壁に貼ったそうです。赤字続きのカレー屋だけれども、誰かのために役立ちたいとの願いがこうして受け継がれていくと塾の講師は涙していました。信仰とは別ですが、これが「日々、十字架を負うて生きる」姿だなと私は感動しました。
3. 全世界を得ても自分自身を失ったら(25)
人生は1度限りです。だからこそ私たちは日々、考え続けたいと思います。私は何のために生きているのだろうか。誰のために生きようと願っているのだろう。私は誰を愛し、誰を大切にして生きているのだろうか。何歳になっても自分に問いかけ続けたいと思います。そうでないと、長生きをして生きている「おまけの人生」を「ただ息をして生きているだけ」になってしまいかねません。
神が遣わされた救い主キリストを信じ、イエス様の十字架と復活を通してついに実現した「神の国とその義」の完成のために、自分にできる使命の道を、隣人を愛する奉仕の道を歩み続けたいものです。全世界の富を手に入れても、それだけで終わって、永遠の神の国と永遠のいのちを失ってしまったなら、得たものは何になるでしょうか。富の最後の使い道が立派な大きな墓を建てること、それが、自分が生きた唯一の証であるとしたら、それこそ「墓があってもはかない人生」と言えるかもしれません。大事なのは神が遣わされたまことの救い主イエスキリストを信じて、永遠のいのちを得ること。その命を、この地上で「キリストの御国」の完成のために、喜んで用いること。使命とは文字通り、いのちを使うことです。そこに苦労があっても、その苦労にまさる喜びがあふれるのです。
イエス様もそのような喜びを心に抱いて、顔を天に向けて、十字架の道を歩まれました。
「だから神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)
主に栄光を帰します。