【福音宣教】 キリストの栄光の輝き

2022年1月16日

コロナウィルス・ミクロン株による感染急拡大が起きていますので、皆様とご家族の健康が守られますように心からお祈り申し上げます。

イエス様はペテロ・ヨハネ・ヤコブの3人の弟子たちだけを連れて祈るために山に登りました。するとイエス様のすがたが変わり、衣が白く輝きだしました。マタイはさらに詳しく「御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(172)と記しています。それだけではなく偉大な預言者モーセとエリヤが現れ、イエス様と三人で話し合いを始めました。その会談の内容は「エルサレムで遂げようとしている最後(十字架の死)」(31)についてであったとルカは記しています。

ペテロの信仰の告白を受けて、イエス様はキリストが歩むべき神のご計画、すなわち十字架の死と復活について語り、さらに弟子たちが歩むべき道、すなわち「自分の十字架を負って日々従うこと」を示されました。イエス様が歩むこの十字架の道こそが、旧約聖書で約束されていたメシアによる救いの成就であることが、旧約を代表するモーセとエリアの出現で明らかにされ、確証されたのでした。そして新約時代の教会を代表する3人の弟子たちに、神の独り子としての栄光の輝き(ヨハネ114)をお示しになったのでした。

1. 宗教的満足

ペテロは何と言っていいのかわからないまま、感動のあまり、「私がここに3つ天幕をつくります」(33)と口走りました。旧約時代に、モーセに率いられたイスラエルの民は、天幕を建てて荒野で生活しました。その中の一つの天幕は、神が臨在される特別な天幕すなわち「会見の幕屋」と呼ばれました。ペテロの念頭にはその意識があったのでしょう。日本流にいえば「祠を建て」て、お参りをするといったところでしょうか。

人間の本姓として、何かすばらしい神秘的な体験をすれば人は、記念となるものを何か残したくなるものです。ずっとそこにとどまりたいと願うものです。イスラエル旅行をすると多くの方が「エルサレム病」という熱病にかかり、何度でも行きたくなる、そこにとどまり続けたいと願うようになる。もうエルサレムに移り住もうかと思うほどらしいです。すばらしいものを見れ見るほど、より強烈にこころを奪われ、宗教的な満足感をかきたてられます。ですから宗教界では競うようにますます大きな建築物を建て、内部を金銀で豪華絢爛に装飾するようになる傾向が強くなります。結果的に、見る宗教は偶像化の道へと進みやすいのです。エドム人であったヘロデ王は、ユダヤ人の王であることを誇示し、ユダヤ民衆の関心を自分にひきつけるためにエルサレムに大神殿を建設(BC20AD64)しました。城壁には金泊をかぶせたそうです。およそ80年の歳月を費やして完成しました。しかし神の御子が来られたにもかかわらず、エルサレムは御子を頑なに拒み、神殿の完成からわずか6年後には。ローマ軍によって神殿は破壊され、都エルサレムは滅んでしまいました。目に見えるものに惑わされてはなりません(2コリント418)。

2 御子キリストに聞け

神様は「見る宗教」を拒み、「聞く宗教」を尊ばれました。旧約聖書では「聞けイスラエル」と繰り返し、繰り返し、神は呼びかけておられます。

「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。」(申命記20:3)

「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。」(申32:1)

預言者エリは、サムエルがまだ幼い時からひとつのことを教え、後継者となることを導きました。神が呼んでおられると知ったならば「主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」(1サムエル3:9)と答えなさいと。 ペテロたち3人にサムエルと同じように、神のしもべとなる道を歩ませるために、神は濃い雲でイエス様の姿を隠してしまい、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。これに聞け」(5)と命じました。御子イエスの声を聞くこと、御子イエスのことばに聞き従うことを強く求めたのでした。

教会は、御子イエスのことばを聞く、現代の「幕屋」であるといえます。ペテロたちが建てることがゆるされなかった幕屋が、今、ここに、教会として存在しているのです。御子キリストは教会の礼拝の中において、祈りの中において、賛美の中において、交わりに中において臨在し、語りかけてくださっています。そして、御子のことばを聞く者は生きることができるのです。

イエスは答えて言われた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ4:4)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)

3. 山から下りて群衆の中へ

弟子たちは山の上にとどまりたいと願いました。しかしイエス様は山を下りました。大勢の人の群れがイエス様を待っていたからです。イエス様はその中に飛び込んでいかれました。もちろん弟子たちもです。イエス様は宗教的な自己満足にとどまるのではなく、弟子たちも民衆のただなかに分け入っていくことを願われました。山の上ではなく、山の下こそがイエス様の働きの場、父なる神に仕えるイエス様の献身の場でした。なぜならば、そこにはイエス様の助けを必要としている多くの人々がいたからです。

教会も、私たちクリスチャンも、常に心地よい山にとどまり続けるのではなく、山を下りる覚悟が必要です。もちろん、山をおりてこの世界で仕え、疲れ切ったときには再び山に登ってくること、しずかに祈ることは必要です。イエス様のことばは私たちのすべての疲れを癒し、重荷から解放してくださるからです。

私たちは「いつまでも、ここにいたい」と誰もが願うような教会でありたいと願います。と同時に、「さあ、山を下りて、イエス様を待っている人々の中へ出かけていこう」という覚悟も必要です。いつまでも山の上にとどまっていては、いつしか仙人になってしまいます。教会には仙人はいりません。神と隣人に仕えるしもべたちが求められています。

主イエスを信じ、ついてゆきたいと願う者の道は、「日々、十字架を負って歩む」道です。しかし、先立つイエス様は神の御国の王なるお方であり、神の御子としての栄光に輝くお方です。その姿こそは私たちの希望であり、力の源でもあるのです。世の中の多くの人々はイエスの本来の姿を知りませんが、私たちには知らされています。だから、この方の御声を聞きながら、完成者であるイエスから目を離さず歩みましょう。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル122

主に栄光を帰します。

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