【福音宣教】 たとえ無力であっても

2022年1月23日

コロナウィルス・ミクロン株による感染急拡大が起きていますので、皆様とご家族の健康が守られますように心からお祈り申し上げます。

先週学んだようにイエス様はペテロヨハネヤコブの3人だけを連れて、祈るために山に登られました。するとイエス様の姿が変わり、神の御子としての本来の栄光に満ちたお姿を弟子たちに明らかにされました。さらに旧約時代を代表するモーセとエリヤが現れ、十字架の最後にについて語り合われました。ペテロはこのまま感動に包まれいつまでも山上に留まりたいと願いましたが、イエス様は山をくだり、世のただなかに身をおき、隣人に仕えることを願われました。

1. 世の不信仰

山から下りてきたイエス様と三人の弟子たちが見たのは相変わらずの罪の世の悲惨な混乱した有様でした。悪霊は少年を幼い時からてんかんのような発作でさんざん苦しめ、その父親はご利益を求めて弟子たちのもとに駆け込んで来ましたが、弟子たちは悪霊を追い出すことも少年を助けることもできず無力さを露呈していました。イエス様に敵対している律法学者たちは、ここぞとばかりには弟子たちを非難し、一方、弟子たちは自己弁護のために彼らと論じあっているという有様でした。神の御子イエス様が来られて「御国の福音」を宣べつたえ、御国の恵みの御力で悪霊を追放し、あらゆる病をいやし、弟子たちにもすでに「悪霊を追放する権威を授けた」(91)にもかかわらず、世の中はいたるところで問題だらけです。その上、弟子たちは無力さを抱えていました。「お弟子たちにお願いしたのですが、お弟子たちはできませんでした」(40)と父親は弟子たちの無力さを訴えました。この時のなんとも情けなさそうな弟子たちの表情を思い浮かべてみてください。律法学者や父親からの「なぜできないんだ」という鋭い非難や突っ込みに、「イエス様ならできるけど、私たちには無理です。レベルが違いますから。くらべられたら困ります」「せめて、ペテロとヨハネとヤコブがいれば何とかなったかもしれませんが、小粒の私たちには無理です」「以前は私たちも悪霊を追い出すことができたのですが、今回の悪霊はなかなかの強敵ですから」とあれこれ言い訳をしていたかもしれませんが、かなりの無力感に弟子たちが打ちのめされていたことはまちがいありません。イエス様はこうした有様を見て「ああ、不信仰な曲がった今の世だ。いつまであなたがたに我慢すればいいのか」とつぶやかれました。

2. 父親の不信仰

イエス様を見つけると、この父親は「私の息子をみてやってください」(38)と懇願しました。幼い時から(マルコ921)、息子は苦しめられていたからです。するとイエス様は「その子を私のもとに連れてきなさい」とみもとに招きました(41)。イエス様のみもとにくることからすべての問題は解決へと導かれます。さて、息子を助けたいと願う父親のどこが一体、不信仰なのでしょう。マルコ922を見ると「ただ、もしおできになるものなら、私たちを憐れんでお助け下さい」と彼は懇願しています。「お弟子たちのように、あなたにもできるかできないか、わかりませんが、もしできるならば」という、疑いの思いが透けて見えます。イエス様はつかさず「できるものならというのか? 信じる者にはどんなことでもできるのです」と、彼に「信仰」を求めました。父親はこの時、はっと、悟ったと思います。イエス様のもとに連れてくるだけでは足りない。信仰に立たなければわが子の長年にわたる苦しみを解決できないと。医者にも祈祷師にも頼ったが不可能だった。イエス様の弟子たちにも期待したができなかった。しかしこのお方ならばきっとおできになる!できるかもしれないじゃなく、「神の御子ならばおできになる。できないことなどはなにもない、全能者である神の御子だから」と。イエス様に「信頼しきる信仰に立つ」ことが求められているのだと目が開かれたのでした。そして今がその時だとばかり、意を決して父親は「信じます。不信仰な私をお助け下さい」(24)とイエス様のふところにとび込んだのでした。

信じているようで信じていないという「不信仰の心の壁」が崩れ落ちた瞬間でした。お弟子たちが無力だったのではなく、悪霊があまりに強力だったからでもない。キリストの前に「自分が不信仰だったから。それが息子の癒しの妨げだった」ことに気づいたのでした。自分の不信仰という心の中の分厚い壁が、神の救いと癒しの御業の妨げになっていた。つまり、問題は外にあったのではなく、自分の中にあったのだと気づいたのです。

「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来だ」は、カナダの精神科医エリック・バーンのことばです。問題は他人の中にあるのでなく自分の中にある。それに気づかないことが不信仰で、気づいたら不信仰から解放されます。なぜなら、不信仰な自分だからこそ、本気で信仰に立って主を待ち望むことができるからです。つまり、その時、信仰を再起動させることができるからです。ご利益の信心から、キリストに対する信仰へと飛躍するめぐみのときを迎えるのです。

3. 弟子たちの不信仰

面目丸つぶれの弟子たちはあとからイエス様に「どうして私たちは追い出せなかったのですか」とそっと尋ねました。イエス様は「この種のものは祈りによらなければ何によっても追い出せるものではない」(マルコ929)と弟子たちに語ってくださいました。どうやら「この種のも」とあるので、今回の悪霊はかなりの力を持つ手ごわい相手、強敵であったようです。

しかし、相手がいくら手ごわくても、強敵であれ難敵であれ、「祈り」は神から与えられた最大の力であり、最も有効な手立てです。私たちはしばしば「手は尽くした。あとはもう祈るしかないね」と口にします。信仰的なことばに聞こえますが、2重の意味で不信仰です。もうお気づきでしょう。順番が間違っています。そして祈りの力を過小評価しています。祈りは付け足しでしょうか。祈りは最後の手立てではなく、最初に用いるべく神がご用意してくださった武具です。このことばをもって、祈りはすべての力の源であることをイエス様は弟子たちに教えてくださったのです。

少年を癒すことができなかったのは、彼らが未熟だったからではなく、祈りが足りなかったからです。信仰が足りなかったからです(マタイ1720)とも置き換えられています。

悪霊に対するだけではありません。問題が大きければ大きいほど、苦難や試練が大きく長引いていればいるほど、信じきるという祈りを発揮していく必要があります。

エペソ6:11以下に、神の武具が七つ紹介されていますが、最後に神がご用意してくださっているのが祈り(18)です。もっとも効果的で力があるからです。ところがその祈りの中にも不信仰が入り込んできます。それは信じて祈っていないという祈りです。一生懸命、祈ってはいるものの、実は信じていないという祈りです。実例が使徒の働き12章に記されています。ヤコブを切り殺したヘロデ王は魔の手をペテロに伸ばし彼を投獄しました。教会では「ペテロのために神に熱心に祈り続けていました」(使徒125)。神は御使いを遣わし牢獄からペテロを脱出させました。ペテロが教会に立ち寄って感謝の報告を伝えようと、門の扉をたたきました。応対に出た女中が「ペテロさんが来た」と弟子たちに伝えたところ、弟子たちは「そんなことはない。おまえはおかしい」(使徒1215)と、相手にしませんでした。なんということでしょう。熱心に徹夜の祈りまでしていたにもかかわらずです・・。 何を信じて熱心に祈っていたのでしょうか。徹夜までして祈っている自分たちが、不信仰だとはまったく気がついていないのです。私たちも同じ不信仰な祈りを繰り返しているのではないでしょうか。「かならずなる」と信じ切って、祈っているでしょうか。失敗談はほかにも多くあります。ひどい場合には、祈ってくださいとリクエストしながら、しばらくすると何をリクエストしたかも忘れてしまうことがあります。

「この類のものは祈りによらなければならない」と教えてくださったイエス様のことばをしっかり受けとめさせていただきましょう。もしあなたが大きな問題、課題をかかえているならば、なおさら、「かならず神はそうしてくださる」と信じて祈る祈りを学ぶ必要があります。

祈りは神からの最善の贈り物であり、最優先するべきものであるだけでなく、信じ切って祈ることが求められます。ある牧師がいいました。「問題につまずくのではなく、神にひざまづくのがクリスチャンである」と。祈ることを忘れ、問題につまずき、「むりです、できません、できませんでしたからどうせ次もできません」と嘆いている自らこそ、不信仰だと自覚しましょう。その不信仰という無力さを自覚した時から、神の恵みの力に満たされていくのです。
「主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです」(第2コリント1210

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