【福音宣教】誰が一番偉いのか?から、もう解放されよう

2022年1月30日  ルカ9:46-48

「さて弟子たちの間に誰が一番偉いのかという議論が持ち上がり」(46)ました。その前にイエス様は「ああ、不信仰な曲がった世の中だ」(41)と嘆かれましたが、その一つが「比較と競争」という「物事の見方」(価値観)と「行動の原理」といえます。これは古今東西を問わず、この曲がった世界における強力な価値観の一つです。 幼い時からどれだけ強い影響を受けて私たちは育ってきたでしょうか。日本人が大好きな言葉は「負けるな、がんばれ」だそうです。

それに対してイエス様は「おさなごを私の名のゆえに受け入れる者は私を受け入れる者です」(48)といわれました。子供を愛する、かわいがる、大切にするという意味よりも、「世的には最も無価値な者を受け入れる者」こそが、もっとも偉いという「神の国の見方」をお示しになったのです。

1. 誰が一番偉いのか

動物の世界でも誰が一番強いのか?は、生存にかかわる大問題です。子孫を存続させるうえで「誰が一番強いか」という序列争いは激しいです。一番強いものがボスとなり、外敵から群れを守り、その子孫が生き残ってより優れた群れを繁栄させていくためです。ゴリラの世界では腕力、ヤギの世界では「あご髭の長さ」、トナカイなどは角の大きさ、鳥の世界では「鳴き声」や「羽の美しさ」で決まるそうです。これが人間になると、誰が一番強いかだけでなく。誰が一番賢いか、誰が一番きれいか、誰が一番速いか、誰が一番金持ちかと、あらゆる領域に拡大し、比較と競争に追い立てられていきます。私もみなさんも「がんばれ、頑張れ」、「負けるな、負けるな」と、励まされ、小さな時からネジをギリギリと巻かれて、競争社会に投げ込まれてきたのではないでしょうか。勉強が楽しいから自分から進んで勉強したという子供は、「自発的な努力家」で少数です。もっと数が少ない天才は、勉強しなくても賢いですから比較や競争という世界からは超越してるかもしれません。

2. 幼子のようにキリストを受け入れる者

イエス様の時代、子供の社会的な地位や尊厳・人権は現代とは比べ物にならないぐらい低いものでした。エジプトでパピルスに書かれた古代文書が多く発見されているそうです。紀元前1年7月17日付の古代の一文が残されています。一人の出稼ぎ労働者が、仕送りが途絶えしかも出産を控えて「生活が苦しい」と訴える妻に対して語った伝言内容は、「男の子なら生かしておき、女の子なら捨ててしまえ」と命じたほどです(新聖書大辞典 キリスト新聞社刊)。ですから、どれほど「無力で価値のないもの」とされていたか当時の子どもの社会的地位がわかります。

イエス様は一人の子どもをそばに立たせて「私の名のゆえに、この子を受け入れる者は、私を受け入れる者」と語っています。その意味は「イエスの名において、最も小さく無力で価値がないと、この世でみなされている人々を喜んで受け入れる者」こそ、私を受け入れ、信仰に生きる者だと、弟子たちに教えておられるのです。それは「誰が一番偉いかを競い合うような関係性の中で、みずから進んでもっと低いもの、小さいもの、力のないもの、最後尾につくことを選ぶことができる者」という自己理解に通じます。パウロが自己紹介で「使徒と呼ばれる者たちの中で最も小さい者」(1コリン159)と呼ぶことができたあの自己理解であり、単なる「謙遜さ」以上の自己認識と言えます。

3. 誇るならば主を誇れ

私たちはこの「比較と競争」のループ、連鎖からどうしたら解放されるでしょうか。NOIではなくONLY1つまり、かけがえのない「あなた自身になれ」、あなたは「世界でただ一つの花だから」とのフレーズがよく使われるようになりました。しかしどうしたらONLY1という自分でおれるかとなるとそう簡単ではありません。弟子たちも、イエス様が用意してくださった最後の晩餐の席においてさえ、再び「誰が一番偉いか」(ルカ2224)とイエス様の前で議論を始めたほどですから。一度教えられて、なるほどわかりましたと言えるほど簡単なものではなく、「比較と競争」の原理はほんとうに根深い課題なのです。

私たちはどうしたら解放されるのでしょう。私たちの生き方に根深く食い込んでいる「比較と競争」という棘をどう抜き取ることが可能なのでしょうか。3つあげることができます。

1. イエス様の教えに従い「もっとも小さな者たちを受け入れる」ことを学ぶことから始まります。「受け入れる」の反対語は「拒否する」「拒絶する」「締め出す」「追い出す」「非難する」「裁く」、「差別する」「偏見と排除」、最悪は「無関心」と言えます。マザーテレサが「愛の反対語」は「憎しみ」「敵意」ではなく「無関心」ですと言いましたが、これらのことばはすべて「受け入れる」の反対語です。こうしたことばをあなたの「心のホワイトボード」から拭き去ることです。この文字が心のホワイトボードに浮かび上ってきたら黒板けしで消す。そして「違いは豊かさです」と書き直すのです。

2. 次に「比較する」ことにストップをかけることです。誰が一番偉いかという比較は、じゃあ二番目は誰が偉いかという新しい比較と競争を生み出します。しまいにはじゃあ誰が一番最下位か、誰が一番ダメか、一番最低!か、と人格否定にまでいきつきます。さらに、比較は優越感と劣等感を交互に限りなく植え付けていきます。中学校で学内一番でも、進学校の高校では成績が上がらない、なんとか京都大学に合格しても医学部や法学部に比べて自分は農学部にしか合格できなかったと、引け目を感じてしまう学生もいるそうです。他人や世間が比較することを止めることも、やめさせることもできません。心の中で自動的にスイッチが入ってしまう「比較」にストップをかけることができるのは、他人ではなく自分だけです。

3. 新しい自己理解

最後に最も大事なことは、自分は何者だろうかといつも、イエス様との関係で意識することです。「私の名によって小さな者を受け入れる者は私を受け入れる者だ」とイエス様は言われました。人との比較に陥らないように、押し流され、持っていかれそうにならないように「イエス様を前において」、イエス様の十字架とその愛を思い続けることです。イエス様が十字架でいのちを捨てるほどこの私を愛してくださった、大切にしてくださった、尊い存在とみなしてくださった! つまり、「私は神に愛された、そして愛されている存在なのだ」との自己理解にしっかり立たせていただくことです。
これは信仰的自己理解、福音的自己認識です。イエス様抜きではとうてい持ちえない自己理解です。イエス様抜きでは、どうしても他人の評価、周囲の意見に振り回されて自分を見失ってしまうからです。。

「人生のストレスの多くは仮面をかぶって生きること。偽りの自分を演じること、あるいは自分ではない誰かになろうとすることなどに起因している」(リック・ウォーレン)とのことばは、心にしっかり受けとめたい。何が本当の自分で、何が人に操られている自分か、仮面をかぶっている自分か、自分の素顔は何か、わからなくなってしまうことが多々あります。この年になっても自分がわからなくなる時がある。でもこの年になっても決して変わらないことは「十字架でいのちを捨ててくださるほど、この私をイエス様は愛してくださった」という揺るがない事実。 恵みに立脚している自分です。これは、50年経っても少しも色あせません。誰が何と言おうと、JESUS LOVES MEという恵みに今も変わらず、包まれていることです。キリストに愛されている自分、この自己認識がゆらいでしまえば、たちまち、比較と競争という不安の渦に巻き込まれて自分を見失ってしまうことでしょう。イエスの名によって、イエスの名のもとで、自分自身を理解していく。それこそが比較や競争から離れ、穏やかな距離を取り、不安を解決できるいのちの道といえます。

旧約の詩人は証ししています。「私はいつも私の前に主をおいた。主が私の右におられるので私はゆるぐことがない」(詩篇168

横並びで人と比較するかわりに、天を見上げ、そこにおられる主を見上げましょう。

「誇る者は主を誇れ」(2コリント1017

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