【福音宣教】 主の弟子の道 (献身を志す者へ)

2022年2月13日  ルカ9:56-62

イエス様は神の国の良き訪れ、福音を告げ知らせ、神の国に招き入れる働きを、ご自身だけで完成しようとなさいませんでした。初めからこの働きを弟子たちに委ねようとされました。そのために、後継者ともいえる弟子たちを訓練し教育されました。9章では弟子たちの霊的な姿勢を整えるため、「誰が一番偉いか」と競い合う肉的な比較や競争意識という課題を扱われました。次いで「境界線を引いて敵をつくる」差別意識さらに「感情的になって敵を排除しようとする言葉の暴力」の課題を取り扱われました。続いて今日の箇所では、弟子たちの予備軍(候補生?)たち、すなわちイエス様を信じるだけでなく一歩進んで、献身して仕えようと願っている人々の持つ3つの課題を取り扱われました。主の弟子のひとりとして共に歩んでもらうためにです。御国の働き人となってもらうためにです。

第一は、未熟な熱心さの課題です

「あなたの行くところどこへでもついていきます」(57

熱心さは決して悪いことではありません。イエス様も「熱いか冷たいか」であれと中途半端な生き方が神の御心にかなわないことを語っておられます。しかし熱心さが信仰の成熟さと結び合わないとき、とほうもない疲れをもたらしてしまいます。一般的に「燃え尽き」と呼ばれる精神的・肉体的な疲労感です。体力も気力も落ち、何もしたくなくなるのです。むしろもう逃げだしたいと思うほどです。反動的に「もう嫌だ、結構だ」と拒否感が強くなり、「本来、大好きなことが大嫌いになる」。これが燃え尽きの怖さです。

イエス様は「人の子には枕するところがない」(58)と言われました。狐にも鳥にも巣があり、ねぐらがあり、帰る場所がある。それは「安定と安全」を保障する居場所を意味します。しかし、私に従い、神と神の国に献身することを志すならば、この世的な「安定・安心」を明け渡し、神の御旨のままに、導かれた道を歩むことを受けとめる覚悟が最初から必要なことを伝えているのです。彼は「ついていきます」と言いましたが動詞は「未来形」(I will follow) ですから、「私、ついていくかもね・・」という程度で、「私はついていく心の準備はできています」といった、心の地面が固まった状態ではありません。

・ある熱心な大学生が、「献身して牧師になりたいので卒業したら神学校に進みたい」と教会の牧師に相談しました。牧師は「まず社会人になって経験を積みなさい」と水を差しました。彼が純粋でまじめで熱心だから、その点を心配したのです。社会人としてこの世で「塩もみ」されること、理想と現実との落差・ギャップも受け入れるゆとりを身につけること、どんな複雑な人間関係にも穏やかに対応し、さらには朝令暮改のような目まぐるしい変化にも怒らず、落ち込まず、落ち着いて対処する「心のしなやかさ」を身につけることを願ったからです。熱心さを失わずそれでいて信仰の成熟さも養われた働き人として、生涯イエス様にお仕えしていくためです。私もきっとそう指導することでしょう。

第二は、決心と優先順位の課題です。

・二番目の人はイエス様から「ついてきなさい」と招かれました。ところが彼は「まず、行って、父を葬らせてください」(59)と一時的な猶予を求めました。ユダヤの国では親の葬儀は最も重要な儀式として尊ばれ、一週間あるいは一か月間、喪に服する習わしがありました。ですから葬儀を出すことは長期間の空白を生じさせることになります。「今すぐ」従うことに、ためらいがあり「もう少し後で」と先送りしたわけです。

あるいは少々疑い深いかもしれませんが、何か断りたい理由をさがす時、最も効果的な手段は「親父が亡くなったので」と葬儀を持ち出すことです。相手は許さざるを得ません。ただし、いくら効果的だからと言っても一度しか使えないのが弱点です・・。つまり、イエス様に弟子として招かれながらも、彼にとっては、献身は二番目、三番目のテーマであり、「まず行って」しなければならないことが「ほかにあった」のです。そして「今、従う」ことに躊躇があり、迷いがあり、まだそこまでの決断や覚悟が十分できなかったのです。

・イエス様は「死人たちに死人たちを葬らせなさい、あなたは出て行って、神の国を宣べ伝えなさい」(60)と命じました。ここでいう死人という表現は、神のもとから遠く離れ、神との交わりを失い、この世のできごとにのみに明け暮れて生きている人々という広い意味で使われています。イエス様は「まず、神の国と義を求めなさい」(マタイ633)と人生における普遍的な優先順位を教えてくださいました。神を忘れ、神を後まわしにしていては、決して充実した人生を送ることはできないからです。主に招かれたら、「はい」と従うことが祝福の道です。神の時を人間の時に譲ってはなりません。神の仕事を世の仕事の次に回してはなりません。決心と優先順位を明確にするようにイエス様は求めれらたのです。

第三は、何かと条件をつけるという課題です

・三番目の人は、「ただ、家の者にいとまごいに帰らせてください」と条件をつけました。無条件で従えないという、彼の課題を見ることができます。彼の条件は「家族に別れを告げさせてください」というささやかな願いでした。家族に黙って、家族をおいたまま、イエス様に従うことがしのびがたかったのでしょう。「お父さんは、しばらくイエス様と共に旅に出る。しっかり母さんの手伝いをして、父さんの帰りを待つんだぞ」と、淋しがる子供に父親が言い聞かせる場面を想像してみてください。それのどこが悪いのかと不思議に思うかもしれませんが、もし家族が涙ながらに引き止めたらどうなるでしょう。彼の覚悟も揺れてしまうことでしょう。そうなると「せめて子供が小学校にあがるまでは・・・」と、次のあらたな条件をつけることになりかねません。

・イエス様は「手を鋤につけてから、後ろを見る者は神の国にふさわしくない」(62)と言われました。さあ畑仕事をしようと決心して鋤に手を置いた(不定過去形)ものの、どうも後ろが気になってちらちらと振り向いて見ている(現在分詞)様子が描写されています。まっすぐ前を向いて鋤を振り下ろさないと怪我をしてしまいます。牛や馬に鋤を取り付けた場合も前を向いていないと曲がりくねってしまいます。後ろをチラチラ見ているとスタートもできなくなります。キーワードは「後ろを見る」です。ではなぜ「後ろを見る」のでしょうか。「後ろ髪を引かれる」からです。後にする家族のことが気がかりで、未練があって、安心して従えないから、「条件を付けよう」とするのです。無条件ではなく、その前に「まず〇○を、あるいはただ〇○を」と、あれこれ条件をつけてしまうのです。

ここで課題になるのは、気がかりや心配や未練という感情そのものではありません。それは人間として自然の反応でもあるからです。真の課題は、その気がかりや心配を、なぜイエス様に「委ねきれないのか」という「信仰の問題」にあります。

・信仰の世界は「主イエスに信頼し、委ねること」がすべての始まりであり、すべてのゴールといえます。神に信頼することを知らなければ、自分の力に頼るか、他の誰かに頼るかしかありません。自分の力に頼っている限り、失敗は避けられません。不安や恐れも避けられません。しかし、神に信頼し、頼り切ったとき、まかせきったとき、「神の平安」を経験します。ですから「委ねる」ことを主の弟子たちは最初に学ばなければなりません。しかも、何一つ条件をつけずに、無条件で、委ねることを学ばなければなりません。その時、イエス様が約束してくださった「私の平安」(ヨハネ1427)に満たされるのです。

不思議なことですが、大きな問題は気にならないものです。「地球がいつ滅びるか」などと多くの人々はあまり気にしていません。むしろ、さっき言われた一言が引っ掛かり、心が潰れてしまうほど気になってしまうものです。私も「教会の10年後」が気になることよりも、「教会のクーラーの電源切ったかな」という不安が気になって、何度、途中から車でひきかえして確認したかわかりません。「そんなことで?」と思うような小さなことがかえって気になり、その小さなことが積み重なって、大きく固まって、重くなり、やばて心が沈んでいくのです。「あなどるなかれ、小さなこと!」です。ですから、大きなことだけではなく、むしろ、日々生じる小さなことほど、毎日、毎回、そのたびごとに、イエス様に委ねることを学びましょう。

・12弟子であれ、弟子候補生たちであれ、歩み道はひとつです。十字架の道ですイエス様はすでに弟子たちに、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい」(マタイ9:23)と語りました。

ルカの福音書では特に「日々」という言葉が強調されています。イエス様の十字架はカルバリの丘に立てられました。そして「一度限り」でした。一方、私たちの十字架は日々の生活の中に立てられています。ですから、ささやかな日常生活であっても、次々と起きてくる嫌な出来事、心傷つくような出来事、イライラするような出来事を避けよう、逃げ出そう、投げ出そうとするのでなく、まず受けとめること。向き合うこと。そしてイエス様に委ねること。しかも、条件をつけず、無条件で委ねることを日々の生活の中で学ばせていただきましょう。主の弟子の道はここから始まるのですから。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなた方のことを心配してくださっているのだから」 (1ペテロ57

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