【福音宣教】 収穫のための働き手

イエス様は12弟子を中心に育てながら、さらに70人の弟子たちも育成し、二人1組にして町や村へ遣わされました。派遣式の前に一緒に祈りの時を持ったことが記されています。

1. 働き手を送ってください

「さらに多くの働き手を送ってください」と、祈りなさいとイエス様は命じました。12弟子たちを派遣し、さらに70人の弟子たちを派遣しようとしているイエス様は、神の国の宣教のために、「さらに多くの働き手を送ってくださるように」、共に祈ろうと呼び掛けています。なぜならば「収穫が多い」からです。世の中では、限られた資源を他の誰よりも早く多く獲得するために多くの働き手を必要とします。一方、神の国では収穫が大きすぎるのに、働き手があまりに少ないから、働き手が少しでも多く必要とされるのです。イエス様はガリラヤ・ユダ・サマリヤ・地の果て・異邦人世界・さらには全世界にまで神の国が広がっていくゴールをすでに見ておられます。そして父のみこころは「すべての人が救われ、真理を知るようになること」(1テモテ24)と理解しておられました。そのために、弟子たちに、収穫の主である父なる神に祈ろうと呼び掛けておられるのです。今日の教会もまさにこの祈りの輪に加わらねばなりません。教会は多くの伝道プログラムを計画し「たくさんの収穫がありますように」つまり「多くの人々が救われますように」と熱心に祈りますが、「一人でも多くの働き手が起こされますように」との祈りこそ、なすべき最初の祈り、忘れてはならない祈りではないでしょうか。

2. 派遣にあたっての教え

・第一に、あなたがたを派遣するのはあたかも「狼の群れの中に小羊を送るようなもの」3)だから、「覚悟せよ」とイエス様は前もって予告しています。

新しいことを始める場合には恐れや不安が伴います。期待されるあるいは自分が期待している良いことと現実とのギャップが大きければ大きいほど、恐れや不安も大きくなり、対応も難しくなります。「そんなことは思いもよらなかった」というのと「そんなことも想定済みでした」というのとでは、直面したときの対応が全く異なります。悩んだり迷ったり、不安が増大したりするのは、「覚悟」ができていないときです。弱いからぐずぐずして覚悟ができないのではなく、覚悟ができないから弱くなってしまうのです。

・第二に、イエス様は財布も旅行かばんも、予備のサンダルも持たないで出かけなさい(4)と命じました。すべて準備万端、整えてから出かけるのではなく、すぐにイエス様のご指示に従い出発することが強調されています。すべての業には時がある。山のごとく動かず、急がず、じっくり構えて待つ時と、風のごとく速やかに時を移さず行動すべき時がある。待つにしろ行動するにしろ、そこには「神への信頼」が基礎になっています。神への信頼がなければ失敗し、早くても「焦って動いてしまった」、遅くても「臆病になって間に合わなかった」と後悔することでしょう。

・第三に、道の途上では「挨拶もするな」(4)という不可解な命令があります。これは「無駄話をするな」「暇つぶしをするな」という意味と理解しておきましょう。「誰にも道で挨拶するな」と聖書に書いてあるから、挨拶されても無視すればよいなどと解釈する人はいないと思います。ところが「ちょっとした挨拶のつもりから始まったのに延々とおしゃべりが続いてしまう」という経験は誰もがするところではないでしょうか。本来のやるべきことに集中しなさいという命令です。

・第四に、村に入り、どの家を訪ねても、あるいは家に招き入れられたとしても、まず「この家に平安があるように」(5)祈りなさいと、イエス様は教えました。ユダヤの国では、「旅人をもてなす」ことは重要な義務とされていました。特に困っていたり、けがをしていたり、病気で助けを求めているような場合はなおさらでした。さらには巡回しながら、律法の教えを説く教師たちを迎え入れ、もてなすこともよく行われていました。したがって弟子たちにも扉は開かれていたようです。

この家に神の平安がありますように」との祝福の祈りは、イエス様が弟子たちに教えてくださったオリジナルの祝福のことばといわれています。「この家に住むすべての家族が、神のもとに立ち帰り、神の御子の名によって赦しと永遠のいのちを受け、神の国を受け継ぐことができますように」との祝福のことばを、私たちも祈りましょう。誰かの家を訪ねた時は、もし口にできなければ心の中だけでも、この祝福のことばを玄関口でささげましょう。

・第五に、歓迎してくれる家があれば、そこに留まり続け(現在形)なさい、あれこれ町や村の中の家を泊まり歩いてはならない(7)とイエス様は教えました。つまり招かれた家を宿泊場所に定め、そこを拠点にして町や村に伝道しなさいという意味になります。その目的は明らかです。二つあります。

第一の目的は、食事が出されるとすればそれは信頼のしるしであり、食事時間は最高の交わりの場とされていました。ですから家族一人一人が耳を傾け、弟子たちの語ることばを十分聴くことができました。時間と場所が提供されたのです。おそらく次の夜には親族や隣り近所の人々が集うことも十分考えられます。こうして弟子たちを迎え、食卓を囲み、家族が福音を聴く、特別に祝福された家が、やがてその村の小さな「福音の家」となったのではないでしょうか。ユダヤ教の会堂(シュナゴーグ)は、どの町や村にもすでに建てられていたようですが、キリスト教会の種も、こうして静かに蒔かれていったと考えられます。

第二の目的は、弟子たちを迎えた家で、福音が家族一人一人に丁寧に伝わっていくためです。

イエス様は荒野でのサタンの誘惑を退けた後、公けに「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ115)と宣言されました。英語訳で、Has come near on you the Kingdom of God と訳されているように、近づいたという動詞は現在完了形ですから、「近づいた、いよいよ近づきつつある、もうやってきた」という、非常にリアリティに満ちたことばです。

興味深いことに、「あなたがたに」(9)と著者のルカは付け加えているところから、神の国の宣言は、大衆や群衆を対象としているというより、あなたがた一人一人を対象にしていることが強調されています。具体的に村の中の「家庭」という場で、神の国の福音が懇ろに解き明かされ、丁寧に教えられ、証しされ、やがて一人一人の腑に落ち、救いの実を結んでいくことになるのです。「伝えた」と「伝わった」とは大きく異なります。「伝えた」は、ああしろ・こうしろ・こうあってほしい・こうあるべきだと確かに伝えたものの、一方通行です。ところが「伝わった」は、相手に何らかの行動変容が生まれ始めたことを意味します。福音を伝えた!あとは本人の責任というのではなく、私たちが「伝わった」という伝え方をしているかいなかを吟味する必要があります。神の国の福音は、家庭という場所では、日々の生活における証しや目に見えることばや態度を通して、じっくり「伝わって」いき、行動変容を起こしていくプロセスをたどる特徴があります。家族はじつによく見ているし、聞いています。「それでもクリスチャンかと思いつつ、やっぱりクリスチャンはどこか違うな」と言葉に決して出しませんが、リスペクトしている部分があります。これはクリスチャンにとっての希望です。クリスチャンの存在は「手紙」として家庭では読まれています。だとすると字が少々まずくても、内容が伝わることが大事です。神に信頼し歩み続け、永遠のいのちと神の国の希望に生きている生きざまが伝わっていけば十分といえます。「今日、救いがこの家に来た」(ルカ199)と実が結ばれることを信じて。

弟子たちが町や村そして家に遣わされ、食卓に招かれ、イエスの福音を自分たちの生きた言葉で、語り伝えていくところから「神の国」は無限の広がりを続けていきました。

イエス様の弟子の一人として、あなたも家に遣わされているのです。そこで生活し、その生活を通して「神の国」を証し続けていきましょう。

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