2022年3月6日 ルカ10:17―24
70人の弟子たちがイエス様から派遣され、ガリラヤ地域の町々村々で福音を宣べ伝え、働きを終えてイエス様のもとに帰ってきました。弟子たちの顔には喜びの表情があふれていました。その理由は、「あなたの名を使うと、悪霊どもでさえ私たちに服従します」と誇らしげに語っていることからわかります。イエス様は70人の弟子たちを派遣することを通して、なにを願っておられたのでしょう。ここには2つの違った喜びが記されています。弟子たちの喜びとイエス様の歓びです。
1. 感謝
「狼の中に小羊を送りだすようなものだ」(10:3)、「あなたがたを拒む者は私を拒む者です」(10:16)とイエス様は、彼らの派遣が安全なものではなく、反対や拒絶もあり、身体的に危害を受ける可能性もあることをあらかじめ伝えておられます。しかしながら、さほど困難もなく今回、彼らはミッションを果たすことができたようです。
うまくことが運ぶことは喜ばしいことです。しかし時には、落とし穴に落ちいりやすくなります。それは、感謝を忘れてしまうことです。イエス様の背後での祈りがあったからこそ、弟子たちは働きが守られたのではないでしょうか。「わたしが見ていると」(18)とあるように、イエス様が見守っておられたのです。「あらゆる権威を授けたのだから、あなたがたに害を加える者はない」(19)と、イエスの名による権威をもって保護しておられたのです。そしてこの約束は世の終わりまで変わらず保持され、主の弟子たちの共同体である「教会」を守り続けることでしょう。
それゆえ、「イエス様、感謝します。イエス様や先輩の12弟子たちの祈りがあったからこそ、無事に働きを終えて戻ってくることができました。」これが最初の報告であってほしものです。「すべてのことについて感謝しなさい」(1テサ5:18)のことばを忘れてはなりません。うまくいきすぎると感謝を忘れてしまうのです。神への感謝を忘れると、人間的な業を誇るようになります。そうであってはいけません。
2. 肉の誇り
「悪霊でさえ、私たちに服従します」(17)と報告した70人の弟子たちの喜びの中に、どことなく「人間的な誇り」の匂いが漂ってきるのを感じます。「わたしたちも悪霊を追い出すことができました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネ先輩たちに劣りませんでした。私たち2番手もなかなかのものでしょう!」と。
感謝する喜びは御霊による喜びですが、肉による誇りは人間的な喜びです。御霊はいつでも主に栄光を帰し、みずからには謙遜と感謝をもたらします。そもそもイエス様が70人を遣わした目的は、「悪霊を追い出し、悪霊を支配させる」という、非常にインパクトのある、人目をひく、パフォーマンス的な働きのためだったのでしょうか。そうではありません。9節で「町の病人を直し、彼らに神の国が近づいたと言いなさい」(9)とイエス様は命じていますが、ここには「悪霊を追い出し」とは命じられていません。むしろ、医者にもかかれず薬も買えないような貧しい人々の元へ行き、病を癒すこと。その病の癒しは、神の国が到来しつつあるという良い知らせ、「福音のもたらす恵みのしるしである」ことを伝えることでした。神の国の恵みといのちの力がイエス様の名によってもたらされているという宣言でもあったのです。
確かに悪霊の追放は、ひとつの手段ではあります。しかし弟子たちが遣わされた目的は、「神の国が近づいた」という福音の宣伝にありました。目的と目的を達成するための手段とは異なります。目的はイエスキリストを信じることによって救いを受ける、永遠のいのちに生きる、神の国に入れるという約束です。そのしるしとしての病の癒しは、悪霊の追放によってでも、医学や薬学の進歩によってでも、代替医療とよばれるカウンセリングやストレッチやヨガ、エクササイズという手段によってももたらされるのです。イエス様は彼らが有頂天にならないように戒めるとともに本当の喜びについて導こうとされたのです。
3. 天に名がしるされることを喜びなさい(20)
イエス様は70人の弟子たちの人間的な誇りを感じ取ったのでしょうか。もっとも重要なことを教えました。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20)
その人がどんな大きな働きをしたか、どれほど偉大な功績を残したか、まもなく始まる女子教育の先駆者津田梅子さんのようにキリスト教教育の歴史に名を刻むことや、あるいは日本で最も多くの人々をキリストの救いに導いた伝道者として、ギネスブックに記録されている本田光慈先生のように、どれほど多くの人々を救いに導いたかということさえも、これらすべてはもちろん尊いことですが、それ以上に真の喜びとするべきは、「あなたの名が天に記されている」ことだとイエス様は明言されました。この世は目に見える成果を追い求めます。しかし、教会は目に見える成果にとらわれることから解放されねばなりません。そうでなければ強勢が伸びないことによって、失望してしまうことにもなりかねません。そんなことで一喜一憂しているありかたは神のみこころではありません。
「天に名が記されている」(20)、このみ言葉の主語は神様ご自身です、用いられている動詞は受動態・完了形ですから、「すでに記されてしまっている」ことを指します。ヨハネ5:24では「死からいのちに移されてしまっています」と強調されていますが、大切なメーッセージです。つまり、名が記されることは、未来のことではありません、ましてやこれからの奉仕や業績いかんによって決定されることでは決してありません。イエスキリストを神が遣わされた救い主・メシアとして信じ受け入れる、「信仰に」のみよることであり、確かな約束のことばです。
救いは徹頭徹尾、キリストを信じる信仰そのものによる神からの贈り物です。さらに、父なる神様は、御子イエスを信じる者たちを「神の御国の民」としてその名を登録してくださる、天にある「いのちの書」(ピリピ4:3 黙示20:12)に書き込んでくださるのです。鉛筆で書いた文字は消しゴムで消せます、ボールペンの文字すら消せます。しかし、御子イエスキリストの十字架の血汐で父なる神が書きしるされたあなたの名前を誰もそして永遠に消し去ることなどはできません。この神の慈しみを、疑わず迷わず、信頼することが信仰なのです。
私が地上をされば、私の名前などは忘れ去られていきます。私の100年後の子孫でさえ、もはや私の名前を口にすることはないでしょう。この世では、名前はやがてうずもれて消えていくでしょう。しかし、いのちの書には、御国の民とともに名が記されているのです。なぜならば、やがて完成する神の御国の「かけがえのない国民」だからです。それこそ私たちの希望、教会の希望です。
小さな者たちにこの奥義が知らされ、ナザレのイエスこそが約束されていたメシア・キリストであることを知り、信じ、神の御国に登録され、永遠のいのちを受け継いでいく、これこそ父の御こころにかなったこと(21)であったのです。そしてイエス様の大いなる喜びでもあったのです。聖霊に満たされた喜び(21)であったのです。
弟子たちの業績や成功を誇る喜びとイエス様の御霊に満たされた喜びを今朝は学びました。あなたはどちらの喜びに生きることを願われますか。