2022年3月20日 ルカ10:38-49
イエス様は都エルサレムの近く3kmほどのベタニア村に住むマルタとマリヤそして弟のラザロが住む家を拠点にして、日帰りでエルサレム神殿をしばしば訪れていました。
家を切り盛りしていた姉のマルタ(アラム語で女主人の意味)は、喜んでイエス様と弟子たちを家に迎え入れました。最低でも13人分の宿泊を準備し、その食事を用意しなければなりませんから、召使たちもいる大きな家に住み、それなりの裕福な家であった可能性もあります。両親のことが全く出て来ませんので、親譲りの土地建物であったものと思われます。
活動的な姉は、かいがいしく働き、食事づくり、洗濯、掃除など、イエス様の身の回りのお世話をすることが喜びであったようです。一方、物静かな妹マリアはイエス様のそばに座って(29)弟子たちと一緒に、イエス様の話に耳を傾けることを喜びとしていました。
ところが、姉のマルタは忙しいのに手伝いをしない妹マリアに対して、ついに切れてしまいました。そして「わたしだけにもてなしをさせている! 何とも思わないんですか」(40)とイエス様に思わず怒りをぶつけてしまいました。3つのことを学びましょう。
1. 忙しさはこころをつぶしてしまいます
マルタが思わずいらだってしまったのは、あまりの忙しさのゆえでした。仕事の分量に追われ、時間の足りなさに追われ、そこに人間関係のややこしさが加わると、だれであっても限界値を超えて、感情があふれでてしまいます。こころの容器、キャパシティ以上に物事が詰め込まれたり、押し込められたり、流し込められると、オーバーフローとなり、それは「怒り」という感情に変化して外にあふれ出てきます。
しかも、怒りは本来の向かう相手ではなく、違う相手に向かってしまいます。マルタは怒りをイエス様に向けてしまいました。「なんとも思わないのですか」と。本来は手伝いもしないマリヤに向けて「マリヤ、少しは手伝いなさい」と言えばよいはずなのに、イエス様に向いてしまいました。見当違いです。見当はずれの相手に怒りを向けてしまっても、解決になりません。かえって自分が後悔し苦しむ結果になってしまうことでしょう。
姉のマルタは、妹マリアに手伝ってほしかったのです。手一杯で困っているので助けてほしかったのです。ですから怒りの代わりにありのまま「マリア、いまとても困ってるの、間に合わないかもしれない、だから助けてくれる」と、素直にSOSを出してマリアに助けてほしいと伝えることもできたはずです。きっとマリアは「ごめんなさい、姉さん、気がつかなくて」と喜んで立ち上がって台所に向かったことでしょう。素直に助けを求められなかったのは、姉としてのプライドが邪魔したのかもしれません。「これぐらい私一人でもできる、あるいは私がやらなければならない」と完全主義的に自分を追い込んでしまったのかもしれません。忙しさという漢字は「心をうしなう」と書きます。そのうえ、いそがしさは、「わたしだけが」とマルタが言葉にしたように「被害者意識」を強めてしまいます。本当は一番の助け手である、普段は仲のよい「妹」が傍にいるのに、彼女の存在が見えなくなって、自分を苦しめる敵・加害者に見えてしまったのです。
2. イエス様への愛の表現は多様です
マルタもマリアも二人ともイエス様を愛していました。イエス様にお仕えすることが喜びでした。しかしながら、イエス様を愛する愛の表現が異なりました。姉は身の回りのお世話をすることが彼女の愛の表現と奉仕でした。妹は静かにイエス様のことばを聴き、弟子たちとともに祈ることが、彼女の個性にあった愛の表現と奉仕でした。
イエス様にささげる奉仕は、多様であり豊かです。みなが同じことを同じ分量でしなければならないわけではありません。けれどもいつしか同じことを同じようにしなければならないと思い込むようになります。いつしか多様性を認め受け入れる広い心を失い、自分と他の人を「比較」し始め、その違いを「差」とみなし始めてしまいます。それは一方では優越感、一方では劣等感、そして「競争意識」を生み出してしまいます。
宇治教会は「多様性と一致」を理念の一つに掲げています。多様さは豊かさであって、比較すべき差ではありません。JTコマーシャルソング「想いうた」姉妹編が話題になっています。個性が違う姉と妹が同じ美容師の道を歩み始め、差が違いに見えライバルみたいに感じ、いつしか仲の良い二人の間に溝ができてしまったことを歌っています。
「自分があって 個性的な妹 人の意見にそっと 合わせる私。全然違うのに 同じ道。 いつの間にか ライバルみたい 二人の違いが 差に見えて」と。
「いつからか「違い」を「差」だと思うようになった時、苦しくなり生きにくくなった気がします。比べても意味のない「違い」に対し無意識に「優劣」のような感情を抱いてしまう。良いも悪いもないのに。自分で自分を苦しめてるだけだって、わかっているんです。」そんな視聴者からのコメントも寄せられています。日常生活の中のあらゆる人間関係においても生じてしまうことではないでしょうか。イエス様を愛する愛に、そしてイエス様への愛を動機とする奉仕に違いはあっても「差」などはありません。その違いはむしろ豊かさとなり、教会の麗しさとなるのです。多彩な輝きとなるのです。
3. イエス様が願うのは、みことばに耳を傾けること
イエス様はマルタを愛しており、マルタの奉仕を喜んで受け入れ感謝しています。決してマルタの奉仕を軽んじているわけではありません。マリヤは弟子たちと共に「神の国の福音」に耳を傾け続けました。一方マルタに対してイエス様は「どうしても必要なのは一つだけです。」といのちの真理を伝えました。必要な一つのこと、それは「主の足もとに座ってみことばに聞き入る」(39)ことです。みことばに聞き入る目的は、聞いて従い、生活の中で「実を結ぶ」ためでした。ヨハネ12章3節以下に記されているように、マリアは御国の福音の中心であるイエス様の十字架の死を感じ取っていました。弟子たちにはまだ理解できなかったようです。そこでマリヤは「葬りの準備」として高価なナルドの香油をイエス様の身体に注ぎ、涙ながらに自分の髪の毛でぬぐいました。み言葉がこのような形で実を結んでいるのです。
一方、マルタは「ただひとつの大切なもの」であるイエスのことばを、この時以来、生涯大切にして生きたことでしょう。み言葉の聞き方も多様です。聞く時間も異なり、聞く態度も違うかもしれません。み言葉を聴くことは大事ですが、さらに大事な一つのことは「聞いたみことばに生きる」ことです。それぞれの置かれた生活の座において、み言葉に生きていくことです。イエス様のように隣人への愛にあなたらしく生きてゆくことです。
17世紀のフランスのカルメル会の修道士であったローレンスは、生涯、台所で炊事係として働きました。一日中、忙しい立ち仕事の連続、台所で野菜を刻み、パンを焼くなかで、彼は他の修道士たちよりもイエス様との交わりを深め、敬虔さを身につけていきました。彼は後にブラザー・ローレンスと呼ばれ尊敬されるようになりました。彼は「1日を通して主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をすることが必要である」と語っています。修道士たちの健康を願い、野菜を包丁で刻むときも、パン粉をこねるときも、オーブンで焼く時も、すべてがイエス様と語り合いながら過ごす祈りの時でした。主イエスのみこころは「み言葉に聞き入る」ことですが、それは「神の国ために実を結ぶこと」を目的としています。隣人を愛するという実を結ぶためです。
「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら・・あなた方が多くの実を結び、私の弟子となることによって、父は栄光をお受けになるのです」(ヨハネ15:7-8)。
マリヤが姉の願いを拒否してそのまま座って聞き入っていたとおもいますか? マルタが料理づくり止めてしまって話を聞き入っていたと想像しますか? そうであれば、その晩の食事は真っ黒おこげだった!ことでしょう。あるいは全員が断食だったことでしょう。私は想像します。その夜は、マルタとマリアが喜びをもって、心を込めて作った最高の食事がイエス様と弟子たちに用意されたと。
まとめましょう。忙しさはこころをつぶしてしまいます。忙しさの中で忘れてしまうのは、みことばを聴くことです。そして、みことばに聞き入る目的は、神の国を信じ、神を愛し隣人を愛するためです。イエス様への愛の表現も、その現れである奉仕も多様です。イエス様はどの奉仕も喜んで受け入れてくださっています。
「こころを尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(申命6:5)と旧約聖書は命じています。こころ・思い・力・知性を尽くしてとは「あなたの全てを尽くして」という意味が第一義的ですが、同時に、神を愛するという愛のかたちには、多様な方向性、多様な領域、多様な方法が豊かに存在していることをも表していると言えます。
神を愛する愛の最高嶺は「足元にすわってみことばに聴きいる」ことです。これは礼拝の本質です。そして「多様な愛をもって隣人を愛する」ことです。これは福音を宣教する本質です。
この二つが永遠のいのちを得る道なのです。以上