2022年3月27日 ルカ11:1-2
イエス様は祈りの時を大切されていました。徹夜で祈られる姿(ルカ6:12)や朝早く、一人で祈っておられる姿(マルコ1:35)を弟子たちは何度も見てきました。ですから弟子たちは「私たちにも祈りを教えてください」(1)と願い出ました。その時、イエス様は弟子たちに後に、「主の祈り」と呼ばれるようになった祈りを教えてくださいました。主の祈りには4つの大きな特徴があります。
1. 新しい祈りです 2. 父との交わりを中心とした祈りです 3. 御国に希望をおく祈りです 4. 日常生活に密着した祈り(日々の糧、罪の赦し、人間関係、人生の試練)です
1. 新しい祈り
弟子たちはユダヤ人として生まれ育ちましたから、ユダヤ教の会堂でラビと呼ばれる律法の教師たちの祈りや、神殿における大祭司の祈りなどを聞いて知っていました。また最後の預言者バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えていたという情報も知っていました。イエス様の弟子として、自分たちも特別な祈りを知り、学びたいと願ったようです。
イエス様が教えてくださった祈りは、今まで聞いたことがない新しい祈りでした。厳かに読み上げられる儀式的な祈祷文でもなく、人に聞かせるための偽善定な仰々しい祈りでもありませんでした。ですから祈り(名詞)を教えてくださいではなく、祈ること(動詞 to pray)を教えてくださいと、あえてタイトルをつけています。
2. 父なる神とのまじわりに生きる祈りでした
イエス様は、祈る時にはこう祈りなさいではなく、こう言いなさいと教えました。ここからしてイエス様の祈りは、新しさを示しています。それは「神様との対話」という特徴です。神と語り合うこと、「神に話して神から聞く」、一方通行ではない双方向の祈りです。決まりきった式文祈祷ではなく、自由祈祷と呼ばれるような祈りでした。「あなたがたの願いを神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)
神を「父」(アラム語aba)、お父さんと呼びかける親しさの中に弟子たちを招き入れられています。赤ちゃんが父親に最初に覚えて使う言葉とされています。考えれば恐れ多いことです。私たちは「天にまします父なる神様」と、なにがしかの形容詞をつけて祈り始めますが、イエス様はいつもシンプルに「父よ」とゲッセマネの園でも、十字架の上でも呼びかけました。
イエス様の弟子たちだけが、「父よ」と呼びかけることができる。イエス様を知らない人は「神様」としか呼べない。イエス様を信じていない人は、「神様、助けてください」と祈っても、何の神様に向かって祈っているのかもわからない。
不安や焦りに駆られている方と話す機会があり、「心配や不安や焦りを委ねることができる人間を超えた神仏・ご先祖なんでもいいけどもっていますか」と尋ねたら、しばらく考えてから・「宇宙かな」と答えられました。まあしばらくして「自然かな。人間は自然と一つだから」と自信なげに言われました。自然や宇宙そのものを創造された天地の神、父なる神さまにまで心が届かない、まかせきれない。そこに言いようのない虚しさがあるのです。赤ちゃんにとって「宇宙よ」「自然よ」といっても抱き上げてはくれません。父親がそこにいるから赤ちゃんを抱き上げてくれるのです。イエス様を通して、神様を「父」と呼び、イエス様を通して「父なる神」との親しい交わりの中に招き入れられたことは幸いなことです。「思い煩いをいっさい神に委ねなさい」(1ペテロ5:7)の平安があるからです。
ちなみにイエス様を信じていない人に「父よ」と祈ってみませんかと勧めれば、ほとんどの人が「そんなバカみたいなことできるか」と反論することでしょう。映画俳優なら上手にそれらしく演技もするでしょうが、心の中では「あほくさ」と思っているかもしれません。クリスチャンはまじめに「父よ」恥ずかしがらず呼びかけることができています。なぜでしょうか。「私たちは奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によってアバ父と呼ぶのです」(ロマ8:15)もう一人の助け主と呼ばれる内に住まわれるイエス様の御霊がそのように呼びかけてくださっているのです。父と御子が一つであってそこには壁がなくシームレスのように、御子イエス様にあって父と私たちも隔ての壁が除かれシ―ムレスになっているのです。
3. 御国に希望をおく祈り
続いて、イエス様は「聖名が崇められ、御国が来ますように」と祈るように弟子たちを導きました。
神の名があがめられ、賛美され、ほめたたえられますようにと意味です。受動態不定過去
(hagiazw)表現ですから、どんなときにも、置かれた環境、事情境遇によらず、毅然とした確固たる意志をもって「神を賛美せよ」「神を喜べ」「神に感謝せよ」つきつめれば「礼拝をささげよ」という意味になるのです。旧約の表現ならば「神を愛せよ」、新約の表現ならば「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」、「神を礼拝せよ」に尽きるのです。
私たちは、礼拝者としてこの世から召しだされました。神を否定し、神をあざ笑い、神をないがしろにし、神を軽んじる人々が多い中、神を礼拝する少数者として召し集められました。先週学んだマリアのように「なくてならただ一つのよき事」(10:42)を求め、「イエス様の足元に座し、み言葉に聞く」(10:39)、御国の礼拝者として召されたのです。
パウロは、私たちの永遠の選びと召しの目的は「神の恵みの栄光がほめたたえられるため」(エペソ1:6)であると明らかにしています。先日のニュースでいつ爆撃されるかわからないキエフの中心地の広場に、オーケストラの団員たちが椅子に座って演奏し、ウクライナ国歌を演奏している場面が映し出されていました。なんという勇気でしょうか。武器を持つ代わりに愛用の楽器を手に取り、音楽を奏で世界中の人々に平和を訴え、彼らもまた彼らの方法で戦っているのです。
「御国が来ますように」という祈りのことばもイエス様が教えてくださった新しい祈りです。単なる将来のことではなく、神のご支配が来ている「不定過去形」が用いられています。神の御子がついに来られた。神の御子イエス様による恵みと力に満ちたご支配がすでに始まった、それは未だ完成はしていないが、神の救いのご計画の中心である御子キリストの十字架の死と復活によってついに成就した。その時、サタンは破れ、罪と死の支配は打ち砕かれたという決定的な勝利がもたらされた。しかし全地が完全にキリストのご支配のなかにおかれ神の国が完成するのはキリストの再臨の時である。その日を私たち神の民は「主よ、来たりませ」(黙22:20)と、世界中の教会と共に待ち望むのです。
「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は幸いである」(黙22:7)主の祈りは、このように輝かしいキリストの再臨と神の国を待ち望む祈りでもある。と同時に、待ち望むだけではなく、「今ここにすでに始まっている神の国」、主イエス様の恵みと愛のご支配の中に、私たち一人一人が生きることが求められている。それが父の御こころです。「ねばならない」のではなく、希望と赦し、和解の務めの中に置かれているのです。キリストの御霊によって持ち運ばれているのです。3節以降に取り扱われています。次週、学びましょう。
あなたにとって御国に生きること、イエス様のご支配の中に今を生きること、それは何でしょうか。イエス様はあなたに何をお語りになっているでしょうか。それを求めていくこと、それこそが「祈ることを教えてください」という願いに通じていくのです。