【福音宣教】 求めなさい。そうすれば与えられます
2022年4月10日  ルカ11:5-10

イエス様は弟子たちに「主の祈り」を教えられました。日毎の糧を与えてくださいとあるように、日々、捧げる祈りでした。ところで祈りの中には「突発的な、緊急時の祈り」も必要とする場合があります。イエス様は「譬え話」を用いて教えてくださいました。「真夜中の祈り」と題しても良いかと思います。

1. 真夜中に突然

・友人には3種類ある。なにかと友人に頼る人、頼られる人、頼られた人が他に相談する信頼する人。イエス様のたとえ話に3種類の友が出てきます。あなたが友人から急に頼まれた。「旅をしている友人が真夜中に突然やって来たので食事を出してやりたいが、パンがないので、3つ貸してくれ」と。こんな夜更けに、家族も寝てしまっているので面倒だといって断った。ところが、あきらめて引きかえすどころか大声で「あくまで頼み続ける」ので、めんどうくさいけれど、起き上がって戸をあけて、パンを与えたという内容の譬えです。「あくまで頼み続ける」という言葉は、直訳では「彼の厚顔無恥」(importunity)のゆえにとなっています。

たとえ話の場合は、イエス様がその解説をしてくださっているならば、それが結論となります。この場合は、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさいそうすれば開かれます」(10)が、イエス様の重要なメッセージです。

旅の途中の友人が真夜中に突然訪ねてくる、家に全く食べ物がない。しかたないから友人宅にパンを貸してくれと頼みこむ。断わっても、真夜中にもかかわらず、近所迷惑もおかまいなしに「貸してくれと」戸を叩いて大声で叫ぶ。どれをとっても常識外れ。唯一、常識的なのは、「家族も寝静まって、家の戸も閉めいてるのに、うるさいな、めんどくさいな」と、断った人だけです。友人がそんな非常識なことまでして求めたのはなぜでしょうか? 聖書は、こうした問いかけをしながら読んいくことが肝になります。

その答えは、「本当に必要だったから」です。彼を頼ってきた旅人の空腹を満たすために、彼の隣人への緊急の愛のゆえに。明日まで待てと、ひもじい思いのままほっておけなかったからです。

・たとえ真夜中であっても、必要なことは起こりえます。水だけ飲んで空腹でも明日まで我慢してもらうこともできます。しかし、どうにも我慢ができない、朝まで待っておれない緊急の時もあります。「めんどくさい」なと思っても、起き上がらなければならない一刻をあらそう事態もあります。本当に必要な時には必要な行動をとらねばならないときがあります。真夜中に突然、必要なことが生じるときが確かに、そしてしばしばあるのです。ですから、この譬えは、本当に必要なものを求める「緊急時」の祈りといえます。

2. 求め続けなさい

イエス様は「求め続けなさい」と教えてくださいました。「しきりに」「あくまで」「あつかましくも」祈り続けなさいとも訳されています。求める・捜す・叩くという3つの動詞はすべて「現在命令形」ですから、「続ける」という熱心さと継続性が強調されています。

熱心さとは「感情的な興奮」や「熱狂さ」を指すのでなく、「わき目も振らずに一途に、ひたすら」集中している状態を指します。なぜなら「本当に必要だから」です。本当に必要だから、単発で終わらず、繰り返し、粘り強く、持続的に求め続けるのです。どうでもよかったこと、たいしたことではなかったこと、どちらでもよかったこと、有るにこしたことはないが別になかってもすんだようなことは、祈っても忘れてしまいます。熱心に続けられる祈りは、本当に必要なものを願う祈りだからです。簡単には諦められない、放棄できない、投げ捨てることができない祈りだからです。

3. そうすれば与えられます

・さて、ここで考えなければならないことがあります。私が「本当に必要としている」ことと、神様が「私のために本当に必要と考えておられる」こととは必ずしも同じではないことです。かならず与えられるものは、神があなたに必要と考えてくださっていることがらです。しかも、神様は考えておられるだけでなく、ご計画してくださっていることをこころにとめましょう。考えと計画とは異なるからです。

「これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。」(ルカ12:30)

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

神様のお約束はこれです。「本当に必要なものは間違いなく与えられる」という約束です。

・もちろん、ご計画ですからそこには神様の思慮深い段取りがあります。ステップバイステップというプロセスが組まれています。思い付きならば即座に応えが出るでしょうし、即座のアクションが生まれます。しかし、神様は思い付きではなく、ご計画を立てておられますから、そこには私たちの側で、「待ち望む」という時が、信頼して待つという信仰が必要となります。

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(へブル1036

自動販売機の中のパンならば、ボタンを押せばすぐにポンと出てきます。インスタントのカップラーメンなら、お湯をそそいで3分待てば食べることができます。現代は「速さ」、スピードが求められる時代です。ことばを代えれば、「待つことがなかなかできない」時代ともいえます。神様は、自販機のパンを与えようとはされません。老舗のパン工房では、まず最高の小麦粉を厳選し、取り寄せ、粉をブレンドし、手をかけて十分良く練り合わせ、オーブンに入れてふっくらと焼き上げて提供します。私たちの父なる神様は、自販機のパンやインスタントラーメンを与えて満足なさるようなおかたではありません。みこころのなかで良く用整えらえ、練り上げられた最善のものを、必要に応じて、与えてくださるめぐみに満ちたお方なのです。 このお方に信頼することが私たちの信仰なのです。

4. 捜すこと、門をたたくことも神は導かれる

父なる神様と私たちとの交わりは、「願い求めて与えられる」という1ルートだけの単純な関係だけではありません。「アバ父よ」と呼びかけて日々祈る神様との関係には、求め続けるだけではなく、捜し続ける、戸をたたき続けるという祈りと行為も含まれます。求める、捜す、たたくという動詞は、私たちの全ての営みを象徴しているといえます。日常の生活も、緊急時の時も、すべての歩みを、父なる神と主イエスは導き続けてくださいます。

・捜し続けるとは、何が本物か、何が真実か、真理はどこにあるのか、まことの神とはどなたなのか、永遠の愛はどこにあるのか、生きるとはどういうことかなどなど、目先の満足で良しとするのでなく、追い求め続けていく「探求心」「哲学的思索」を意味しているといえます。「食って寝て起きる」だけのあわただしい日々の連続で、80年近く生きるというのはもったいないことではないでしょうか。イエス様は「物質的にこの世を楽しむだけ」の人生で十分幸せじゃないかというサタンの誘惑に対して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出ることばによって生きる」と人間の本質を語りました。

また弟子となった漁師たちには、浅瀬ではなく深みに漕ぎ出せ(ルカ54)と命じました。なぜ人は深みに漕ぎ出そうとしないのでしょう。それは「なれ親しんだ浅瀬が安全だから」とリック・ウォーレンは語っています。見知らぬ深みの世界に進むには不安や恐れが伴うものです。ですから、「無理せず、適当なところでとめときましょう」「深入りしないように」「考えても答えはないのだから」と、お茶を濁して中途半端ですますことが多いのではないでしょうか。まことの神を捜し続けるならば、聖書の中に永遠なる、真実な愛の神をきっと見出すことができます。「ここに愛がある」(1ヨハネ4:10)と最大の人生の価値をも発見できることでしょう。人生は宝探しのようなものです。「発見する」喜びと感動に満ちています。聖書はまさに「宝の箱」「宝の宝庫」のようなものです。捜し続ける人生には、見出す喜びがかならず伴うのです。

・「たたき続ける」ことも人生に必要です。緊急時、困難なときにこそ、必要とされる祈りです。失敗しても、挫折しても、思うようにことが進まなくても、向かい風が強くようなきびしいときでも、それでもなお、神に信頼して、あきらめず、投げ出さず、逃げ出すのでなく、イエス様と共に歩み続けることを指します。前途にふさがる扉がどれほど重くとも、まるで幾重もの鍵がかかっているかのように思えるときにも、あきらめずチャレンジし続けるならばついに「打開」、すなわち扉が開かれるのです。「サタンはクリスチャンを落胆させるのが大好きです。失望したクリスチャンが力を発揮できないことを知っています。私たちクリスチャンはサタンからくる否定的な考え‐サタンがもたらそうとするすべての失望‐に、立ち向かわなければなりません」(ウォーレン)ということばは私たちを勇気づけます。根気強く、あきらめないで神に信頼し続けるならば、道は拓かれ、扉は開くのです。神がそうしてくださるのです。私たちは無力ですが、私たちが信頼する神は「山を動かし、荒野に花を咲かせる」(イザヤ35:1)ことができるお方なのです。

あなたが壁にぶつかっているときこそ、行き詰っているときこそ、求めなさい、捜しなさい、たたきなさい。そうすれば本当に必要なものは与えられ、意外な場所で発見し、固く閉ざされた扉も開かれるのです。

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