【福音宣教】 こころが燃えたではないか

2022年4月24日  ルカ24:25-34

今朝は宇治バプテスト教会第39回年次総会礼拝です。

先週のイースター礼拝にはZOOMでオーストラリアに住む張さん、呉さんご夫妻も参加してくださり感謝でした。午後から山本光子姉妹の納骨式も執り行うことができ感謝でした。今日の総会礼拝の聖書箇所は、エマオの途上と題する有名な絵画も描かれている箇所です。イエス様の復活を信じることができず、十字架の処刑と埋葬を目撃した二人の弟子は大きなショックを受け、気落ちしたまま、エルサレムからおそらく故郷のエマオの村に足取り重く帰る途中、1人の旅人と出会いました。目が開かれるまでそれが復活されたキリストとは気がつきませんでした。道々ともに歩く中で、彼らは、「大きな期待を寄せていたイエス様が十字架で処刑されてしまい、夢も希望も失ってしまった」ことを、旅人に話し出しました。あるいは、エルサレムに留まっていては自分たちの身にも危険が及ぶかもしれないと考え、村に避難しようとしていることも正直に話したかもしれません。

人生を賭けた大きな期待がはずれてしまい、失望に陥ってしまう経験を誰もが味わっています。高校受験や大学受験で失敗し経験し、就職活動で苦労した経験し、失恋して結婚の夢破れた経験、あるいはコロナ影響で起業した店が潰れ借金だけ抱えてしまった経験・・。そのような人生の途上での失意や挫折からの救いはどこにあるでしょう。

「道々、お話になっている間も、聖書を説明してくださっている間も、心は内に燃えてたではないか」(32)と二人が互いに確認し合ったことに着目しましょう。

復活された主イエスキリストと出会い、彼から神のことばの解き明かしを聞き続けていた間、「私たちの心は内に燃えたではないか」(32)という霊的な経験を彼らは証ししています。

そうです、よみがえられた主イエスのことばを聞き続けるとき、「こころが燃える」経験へと導かれるのです。失望し冷え切ったハート、落胆し悲しみに沈んだハートに「火が点火された」のです。しかも「未完了形」なので「燃え続けていく」という意味が込められています。コーヒの宣伝で「ファイアー」と叫ぶコマーシャルがありました。コーヒーのカフェインでファイアーするかもしれませんが、残念ながら一時的に過ぎません。しかし、復活され道々ともに歩んでくださる主イエスのことばを聞く時、みことばが「心のたきぎ」となって、心は永続的に燃え続けることができるのです。

二人の弟子たちは、その結果、どうしたでしょうか。

「道を引き返し」(33)、エルサレムの仲間たちのもとへ戻りました。挫折し諦めた場所、失望しすべてを投げ出してしまった場所、失敗し傷つき逃げ出してしまった場所、恐れから身を隠そうとした場所、そこへもう一度立ち戻る、引き返す、そしてもう一度やり直す勇気を得ることができたのでした。ここにみことばの力があります。失望からの回復は主イエスのいのちのことばによって可能となるのです。

今年の年間主題は3年間のコロナ禍で損なわれた「交わりの回復」です。正餐と祈りと交わりの回復を役員会で話し合いました。この3つにはよみがえられたイエス様が共に臨在されるからです。イエス様がともに望んでくださるところ、置かれた環境がなんであれ、こころが燃えるからです。復活の希望と喜びは決して失望させられることはないからです。

「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20)

このことを心に刻み、新しい1年の歩みを、歩みましょう。WITHコロナ以上に、WITHジーザスの道程を共に歩みましょう。


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