【福音宣教】仮面をかぶった人生にさよならを言おう

2022年6月12日  ルカ11:37-45

先日、ミャンマーから来日して教会に集っている2人の青年とともにランチを食べ、楽しい交わりの時を持ちました。ミャンマーは仏教国ですがそれでもキリスト教会もクリスチャンも多く、特に若い世代のクリスチャンがたいへん多いそうです。ミャンマーのバプテスト教会出身で宇治に転居したので同じバプテスト教会を訪ねましたとのことでした。

さてイエス様もある時、パリサイ人から食事に招かれ、家を訪ねました。パリサイ人とは戒律や律法を厳格に守ろうとする人々の総称です。そうすることで神によろこばれ、永遠のいのちをえることができると信じていました。「パリサイ」とは「分離する」という意味です。ですから彼らは律法を守らない人々を罪人と呼び、距離をとっていたのです。   イエス様が招かれた家には他にも多くのパリサイ人や律法学者たちが同席しており、イエス様を歓迎してお迎えするという態度、雰囲気ではなく、イエス様を非難攻撃するための材料を狙っているような重苦しい空気が漂っていました。

1. イエス様のきびしい叱責

イエス様が食事の前に手を洗わなかったためです。彼らは驚き、ざわつきました。これは衛生上の問題ではなく、「きよめの洗い」(38)とあるように、ユダヤ教における戒律的儀式を守るか守らないかという問題でした。きよめの水とは、コップ一杯の水を指先から手の甲、手首まで垂らすことだそうです。イエス様はこの時、パリサイ人を愚かな人たち(40)、忌まわしいもの(424344)ときびしく叱責しました。食事に招かれながら大胆ですね。

40節では、汚れた大皿の外側を一生懸命洗ってきれいにするが、大皿の内側には汚れたまま、まるで強欲と邪悪がへばりついたままではないかと糾弾しました。
42節ではパリサイ人たちは、あらゆる野菜の1/10を神経質なほどきちっと測って神殿に納めるものの、もっと重要な「人々への公義と神への愛」をすっかりなおざりにしているではないか。かんじんなことが抜け落ちてしまっているではないかと糾弾しました。

43節では会堂の上席に誰が座るべきかと仲間うちで醜く言い争い、市場ではうやうやしく挨拶されることを好み、優越感を味わってご機嫌になっているではないか。

最後に44節にいたっては、パリサイ人たちは、まるで人目につかない墓のようだ。つまり穢れの根源はあなたたちだと辛辣に叱責しました。イエス様時代、墓は白く塗って目立つようにしました。気づかないで近づいたり、うっかりその上を歩くだけで汚れてしまうとみなされたからです。死骸にふれることは最大の汚れとされ1週間は謹慎しなければならなかったそうです。そういう死と穢れそのものである墓のような存在になってしまっていると、イエス様はパリサイ人の言動を強烈に非難したのです。彼らは中身ではなくうわべだけを取り繕い、神の目よりは人の目を意識し、隣人愛や神様との信頼関係に喜びをもって生きることよりは、1グラムでも間違えないように神経質なほどきちんと測って、戒律を厳守しようとしました。このようなパリサイ人の「細かすぎる形式主義」「見せかけ主義」「建前主義」に対してイエス様は厳しい態度で接したのでした。

神を「アバ父よ」と呼び、父なる神様との親しい交わりの中に生きる信仰の喜び(福音)を伝えようとしているイエス様にとって、形ばかりの見せかけの宗教儀式や生活態度がいまいましく思えたのでしょう。食事に招かれながらさっさと帰ってしまわれました。

 完全主義に注意しよう

私たちクリスチャンも「見栄」「形式主義」「権威主義」「自己顕示欲」に注意しましょう。クリスチャンとして立派に見せよう、良く見せようと背伸びしすぎたりしていませんか。こうした「見せかけ主義」に陥らず、「ありのまま主義」あるいは「等身大の自分で素直に神の御前で生きる」ことが望ましいと思います。

またクリスチャンの抱えやすい「完全主義」にも注意が必要です。この世の中に「完全」なものは「神」以外に存在しません。神様以外に存在しない完全を互いに要求するのは罪です。最近読んだ本(精神科医・増井武士)の中で、「自然界はみなグラデュエーション、中間色でできている。白だけ黒だけなど存在しない。人間だけがそのような世界を人工的につくりだしてしまう」と述べられています。コンピュターが作る人間の顔は左右対称ですが、自然の人間の顔は右側と左側でずいぶん違います。完全じゃないからこそ味があり、面白みがあり、愉しいのです。見飽きないのです。

パリサイ人たちはできもしない完全さを求めて、結果的にごまかしと見せかけに自分を追い込んでしまました。一方イエス様のお弟子たちときたらどうでしょう。最初から彼らのやぶれかぶれの等身大の姿をありのまま、聖書は描き出しています。失敗だらけ、欠点だらけ、イエス様からなんども叱られながら、なんども赦しを経験し、人間味を豊かにしながら霊的に成長し、互いに愛し合うことを学んでいきました。私たちも、安心してイエス様の弟子の道を歩んでいきましょう。

Ⅲ 偽善の仮面と役割の仮面の違いを理解する

さて、イエス様はパリサイ人たちの見せかけの生き方に対して偽善者(マタイ625)と言いました。偽善ということばはギリシャ語では「役者」を意味します。役者は自分とは違う人物を化粧したり仮面をかぶって演技します。日常生活でも自分を隠して役者のように演技している姿を偽善あるいは偽善者と呼ぶようになりました。本来、役者は仮面をつけて演じている自分と本当の自分とをちゃんと区別していますが、仮面ばかりかぶって生きていると、仮面が密着してはずせなくなってしまい、演じている自分と本当に自分との区別がつかなくなってしまうそうです。ついには演じている自分を本当の自分だと思い込み、仮面の下の自分の姿が見えなくなってしまうのです。イエス様がパリサイ人を鋭く糾弾したのはまさにこの点でもあったのです。本当に自分の姿が見えているのか!と。

みなさん「あなたクリスチャンらしくないわね」と言われるより「お前、偽善者だ」と言われるほうがズシンと胸に刺さりますね。しかし、このことはクリスチャンとしてまだ未熟だからということを意味しません。むしろ私たちが自分の弱さや不完全さや罪深さを自覚できているからこそ、逆に鋭く響くのだといえます。日曜日の私と普段の日の私のギャップを私たちは正直、経験していますね。一緒に暮らす家族は誰よりもきっとよく知っているはずです。でもあまり「偽善」ということばで悩まないでください。完全主義の虜になって自分を直視しすぎると自分を傷つけてしまうことになり、それは太陽を裸眼で見よとするように危険なことです。キリストの十字架の血汐にあってすでに赦されている自分を「そうではない。これじゃだめだ」と自己否定し、自虐的に追い込み、その結果、魂を傷つけ、神の恵みを忘れさせてしまうことは御心ではありません。私たちが不完全で不十分で愚かで罪深いことはイエス様が良くご存じです。そしてイエス様はそんな私たちを十字架の血をもって覆ってくださっています。ですから安心して下さい。教会の誰も責めません。

ポール・トゥルニエという有名なスイスのクリスチャン精神科医が「人間・仮面と真実」という著書を書いています。かつてクリスチャンの自分は偽善者ではないかと悩んだ若い日があり、この本を読んだ時、私は目が開かれました。「仮面をかぶった見せかけをはぎとって真の自分に立ち帰るというのはユートピアであって、両者は分離することはできない。見せかけをはぎ取ることよりも、見せかけを真の自分といかに融和させるか。自分自身との一致こそが問題なのだ。率直に見せかけの自分をつくり上げようと試みることだ。ただしその中に自分を表現・表出することが大事である」(p107)という趣旨が語られています。 

さらに、役者が仮面をつけて演じるのは、自分を隠すためだけではなく、仮面をつけていっそう生き生きと真実をもって自分自身を表現するためでもある。つまり与えられた役割をそのまま受け入れ、演じていくことでもあるとトゥルニエは教えています。どうやら1枚目の仮面をはぎ取っても、その下にまた違う仮面がある。取っても取ってもまた新たな仮面が現れてくる。そうであれば、偽善者と言われることを恐れて、無理やり仮面を取ろうとする虚しい努力、失敗に終わってしまうだけの努力を意味なく繰り返すよりも、与えられた自分の役割という仮面を自覚し、ありのまま精いっぱい誠実に自分を与えられた役割に近づけていくことのほうが、より自分らしく生きられると教えられました。

4 まとめ

多かれ少なかれ私たちは、社会生活の中で仮面をつけて生きています。そうすることは複雑で難しい人間関係の荒波を乗り越えていく知恵の一つです。仮面を外して生の自分丸出しで生きようとすれば、きっとあちらこちらでトラブルを起こし、たちまち周囲からひんしゅくを買い、生きにくくなってしまうことでしょう。偽善という仮面ではなく、役割という名の新しいやわらかい仮面をつけて、その役割に自分らしく誠実に生きればいいのではないでしょうか。

「仮面をかぶった人生にさよならを言おう」というタイトルを今朝はつけました。仮面をはがしてもまた次の仮面が現れてくるのが私たち生身の人間であり、現実の私たちです。

偽善の仮面をはずしたら美しい本当の自分があらわれるというのはユートピアにすぎないとトゥルニエは見抜いています。仮面など一つもかぶる必要などなく、どこまでも素顔のまま真実と愛だけがあらわれてくるお方はイエス様おひとりだけです。だから真実なイエス様と対話し続けなさい。そうすればあなたも真実なひとりの人間になっていくとトュルニエは述べています。それまでは与えられた役割という仮面をやわらかくかぶり、あなたらしく誠実に役割に生きていきましょうというのです。それは決して偽善者の姿ではなく、ありのままのあなたが、あなたらしく生きる道でもあるのです。ふりかえれば人生は役割の連続です。与えられた神様からの役割を楽しく生きていきましょう。

イエス様はただ一つの愛の戒めを弟子たちに与えられました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1334

なにか肩の荷がおりる思いがしませんか。

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