【福音宣教】宗教は重荷を負わせ、福音は重荷をおろす

2022年6月19日  ルカ11:46-53

イエス様は大変気骨のある人でした。相手がだれであれ間違ったことは間違っている指摘糾弾できる人でした。ある時、ユダヤ教の指導者たちであるパリサイ人や律法学者たちから食事に招かれた席で、彼らを激しく糾弾しました。パリサイ人とは、律法学者たちが定めた戒律を厳守し、世俗的な人々から「分離」しようとする人々でした。一方、律法学者とは、モーセを通して与えられた10戒と呼ばれる神の戒めをさらに発展させ、615の戒律(248のすべき、365のしてはならない)と、もろもろの言い伝えをつくりだした専門家集団でした。イエス様は律法学者たちを3つの点から糾弾しました。

46節 自分でも負おうとしない多くの戒律という重荷を民に負わせている

49節 神が遣わされた多くの預言者たちをユダヤ教指導者たちが殺害した歴史事実がある。にもかかわらず今頃、預言者たちの記念碑を建てようとしている。過去の犯罪の隠ぺいである。人間である以上、過ちを起こすことは避けられないが、しかし事実をごまかしてはならない。うそで塗り固めてはならない。

52節 救いに至る知識の鍵を奪い取り、間違った教えを伝え、永遠のいのちにいたる救いの道を妨害しているというのです。

神と隣人を愛せよという神の御こころを著した戒めを、罰則をともなう律法に変えてしまった。罰則とは守らなければ「滅びる」という審きでした。この中でも、最も悪質なのは、負いきれないような戒律を数多くつくりだし、神を信じる者たちに重荷を負わせて苦しめている。そのくせ自分たちは守ろうとはしないという無責任極まりない態度でした。

ここにユダヤ教という伝統的宗教とイエス様の説く神の国の福音との大きな違いを見ることができます。この世の宗教は、人々に重荷を負わせ、イエス様の語る福音は人生の重荷を降ろさせるのです。あらためて私たちはイエス様の次のことばをかみしめたいと思います。マタ 11:28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」ここには、3つの重要な言葉が記されています。

第一は人々を疲弊させ喜びを奪う「重荷」です。重荷とはとは生きることの苦しみ、老いることの悲しみ、病に倒れることの無念さ、死を迎える孤独と恐怖が代表しています。現在完了受動態の動詞が用いられていますから、「自分の意志とは別に外部から負わされている」重荷をさします。誰も負いたくない、できれば避けたい。けれども誰も避けることができない重荷でもあるのです。イエス様の時代には、さらに「清く正しく歩み天獄に行くためには戒律をことごとく厳守しなければならない」という律法学者たちの教えが加わりました。

第二は私のもとに来なさいという「招き」です。神が遣わされた救い主でありキリストのもとに来なさい、そして私を信じなさい、受け入れなさいという信仰への招きでした。パリサイ人や律法学者たちは「さあ、行って戒律を厳守しなさい」と、行いを強調し、行いによって人は神の前に正しいもの・義と認められると教えました。これを行為義認といいます。一方、イエス様は「私のもとに来て、私を信じなさい」と、イエスを信じる信仰を強調し、信仰によって人は神の前に正しい者・義とされると福音を教えました。これを信仰義認といいます。 聖書は分厚い書物です。聖書の教える救いを開く真理の鍵は次の2つの聖書の箇所にあると私は思います。

   「御子を信じる者は一人も滅びないで永遠のいのちを持つ」(ヨハネ316キリストのみ

   「人が義と認められるのは律法の行いによらず、信仰による」(ロマ328信仰のみ   この二つをひとつにして「救いはキリストを信じる信仰による」というプロテスタント福音主義が誕生しました。

第三は「休み」です。ギリシャ語の語源は「竪琴の弦をゆるめる」とい意味をもっています。人生の重荷だけでなく過度の緊張を強いられる現代社会です。一度しかない人生を、もっと人間らしく、もっと自分らしく生きようとしても生きられない、社会のルールや「こうあるべきである」という完全主義や「周りに合わせろ」という同調圧力に縛られ、何よりももっと早く!とスピードアップを要求される「時間という怪物」に後ろから追われ、プレッシャーと緊張に中に投げ込まれている、これをストレスといいます。そして過度なストレスは私たちの心とからだと魂を蝕んでいきます。永遠のいのちに至る方向とはまさに正反対・滅びに向かう方向といえます。イエス様が与えてくださる「休み」は「単なる休憩」ではありません。公園のベンチやコーヒショップの柔らかな椅子ではありません。あなたにゆるがない安らぎと神の平安を与える約束です。

それはどのような事情境遇の中にあなたがおかれようと、決して揺らぐことも奪われることもない平安、すなわち「神があなたを愛しておられ、あなた共にいてくださる」という平安なのです。永遠の神の愛、これこそ「魂にとどく安らぎ」です。

「私はあなたがたに私の平安を与えます。私があなたがたに与えるのは世が与えるものとは異なります。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14:27)

「私はあなたを愛している。私の目にあなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)

しばらく前、青年から相談を受けました。子供ころから「死が怖い」。親や姉や友達に相談しても誰もちゃんと聞いてくれない。私っておかしいのでしょうか」と。皆さんどう思いますか? そんなこと考えている時間があるなら、もっと勉強しろ、好きなことに夢中になれ、仕事に集中しろと答えてしまいそうでしょうか。死を考えるなんておかしなことでしょうか。私は「少しもおかしくない。むしろあなたこそ人間として生きているよ」と伝えました。100%、絶対確実に直面することを何も考えようとしないことこそ、無用心、非合理的態度と言えます。いつか教会に来るようならあたたかく迎えてあげてください。「ここには死の恐れにまさる神の平安がありますよ」と伝えてあげてください。

さて最後に、私たちも振り返ってみましょう。

1. 「ねばならない」という律法主義を自分や他人におしつけてはいないでしょうか。自分自身のストイックな信念として自分に課すことは悪いことではありません。幕末の儒学者・佐藤一斉は「秋霜をもって自らを律し、春風を持って人に接す」という生きかたに徹し、尊敬されました。自分のねばならないと他の人のねばならないとは同じではありません。それがわかっていないと他者の人権を侵害し、尊厳を傷つけてしまいます。

2. 本来の神の御こころに生きることを再確認しましょう。戒律や律法の原点は「神を愛し・隣人を愛するすること」(ルカ10:27)でした。愛することは本質的に喜びであり、誰かに強制されるものではなく自由な心から生まれるものです。ビリー・グラハム博士が著書の中でクリスチャンのイメ―ジは「堅ぐるしい、まじめな顔つきの人物で、ユーモアの感覚など持ち合わせず、自力では出世できないので、神におすがりしているような知能の人だ」と一般人の見方を紹介しています。陽気なアメリカ人の世界の中でさえ、そのようなイメージがクリスチャンにあるようです。日本人の場合はさらに拍車がかかってしまうことでしょう。もし教会や個人にあてはまるようであるなら、クリスチャンだけがもっているすばらしい内なるいのちの力、愛と平安、・・・神の御霊の賜物と実を・・・、知り、自分のものとし、その恵みの力を用いましょう。「信仰、希望、愛」こそクリスチャンのいのちの輝きなのですから。

「いつまでも続くのは信仰と希望と愛です」(1コリント13:13)「 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」(2コリ3:17)

「いつまでも続くのは、信仰と希望と愛です」(1コリント13:13)

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