2022年6月26日 ルカ12:1-12
イエス様は当時のユダヤ教指導者たちをきびしく糾弾し、決別しました。その後、イエス様のもとに続々と人々が集まってきました。彼らの中にはイエス様を約束されていた救い主と信じ、教えに従う弟子たちの数も徐々に増えていきました。そして、なによりもイエス様はご自身の弟子たちを「私の友」(4)と呼ばれました。
旧約時代に「神の友」(イザヤ41:8)と呼ばれた人物はアブラハムただ一人でした。ところが神の御子イエス様は弟子たちを「私の友」と呼んでくださり、さらにヨハネ15:13では、「人がその友のためにいのちさえも捨てるこれより大きな愛は誰も持っていない」とさえ語られました。イエス様のこの真実な愛は、奴隷一人分の値段でイエス様を敵の手に売り渡してしまったユダに対してさえも「友よ。何のために来たのか」(マタイ26:50)と呼びかけ、悔い改めて立ち帰るようにと最後まで接してくださった中にも明らかに示されています。さてイエス様はここで2つの大切な真理を教えています。
1. 永遠の裁きをくだす権威を持つお方がおられる、だから神を恐れ敬いなさい
「人を恐れるのでなく神を恐れなさい」と、イエス様は人間的な発想を逆転させます。私たちは多くの恐れを抱いて生きています。試験に落ちたらどうしよう。会社が倒産したり、事業に失敗してお金を失ったらどうしよう。病気になったらどうしよう。夫や妻に先だたれたら一人で生きていけるだろうか。恐れや不安や悩みは尽きませんが、その多くはこの地上の生活のこと、人間関係のことがほとんどです。神様を恐れ、永遠の運命や裁きのことを恐れることはほとんどありません。
しかし、イエス様はからだを殺しても魂を殺せない者をおそれるな(4)、たましいをゲヘナに投げ込む権威あるお方を恐れなさい(5)と語ります。地上の生活を出発点にすれば死後の世界のことは後回しになり、まだ遠い先のこととかすんでしまいます。ところが永遠の世界での生活を出発点にすれば、今、地上で生きている日々、自分に残されている命の日々を数える知恵を得ることができます。人は一度死ぬことと死後に神の前に立ち裁きをうけること(へブル9:27)が100%定められていると聖書は明言しています。自分の永遠の運命とまことの神を畏れ敬うことこそ、私たちの人生の最優先事項なのです。
2. 一羽の雀さえ忘れず、髪の毛の数さえも知っておられるお方がおられる、だから安心して思い煩いをゆだねなさい。
このお方は、あなたがた一人一人を永遠の愛をもって顧みてくださるお方です。神様は、一羽の雀さえ顧み、お忘れになりません。イエス様の時代、貧しい人々の食料として雀は売られていました。しかし食用の雀はほとんど価値がなかったので、2羽ひとまとめにして1アサリオン(ローマの最小の青銅貨で、百円くらい)で売られていました(マタイ10:29)。 ある先生は、1アサリオンは2円程度と見積もっています。それでも売れなければ2束まとめて、もう一羽はおまけだ持っていけ!とばかり5羽にして2アサリオンで売られていました。一羽では売り物にならない、おまけにくっつけられて売られてしまうような、価値のない雀さえも覚えてくださり、神の許しがなければ地に落ちることはない、つまり、いつも神さまに守られているのだとイエス様は語ってくださっているのです。ましてやあなたがたは雀たちよりも高価で尊い存在ではありませんかと。
神様は、さらに髪の毛の数さえ知っておられます。
人間の髪の毛の数は一体どれぐらいあるのでしょう。もちろん頭髪状態によって大きく異なりますが、サザエさんのお父さんなら頭頂部の髪の毛は1本しかありませんから簡単に数えることができますが、成人の場合、平均で10万本だそうです。毎日100本は抜け落ちるそうですから、約3年は持つ計算になります。ところが人間の髪の毛の数などだれも正確に数えようとはしません。めんどうくさいし、関心もないし、数えるなど何の意味もない行為だからです。そのうえ、はらりといつしか抜け落ちてしまった髪の毛などは本人でさえ気にしていません。おまけで売られるような一羽の雀と同様、たいして価値のない存在、そして数えるに値しない存在といえます。しかし、イエス様は父なる神様の前には一羽の雀さえも忘れられていない、髪の毛の数さえ、抜け落ちた数さえも知っておられる、そろほどすべてをわかっておられるというのです。
礼拝後に賛美する新聖歌285番の日本語訳はたいへん美しい歌詞です。さらに英語訳にも感動します。
心くじけて思い悩み などて寂しく空を仰ぐ 主イエスこそ わが真(まこと)の友 一羽のすずめに目を注ぎ給う 主はわれさえも支え給うなり 声高らかに われは歌わん 一羽のすずめさえ 主は守り給う
I sing because I’m happy I sing because I’m free 私は幸せだから歌う。私は束縛されず自由だから歌う。
His eye is on the sparrow, and I know He watches me. 彼(イエス様)の眼は一羽のスズメにさえ注がれている。だから、私は知っている。彼(イエス様)は私を見守っていてくださることを。
思い通りに事が運び、願い通りに物事が進む、だから私は幸せなのではない。こころくじけて思い悩み、こころおれて打ち沈み、人を恐れて不安にとらわれ、どこにも居場所を見出せなくてこころもとなく、自分の価値のなさに生きていても仕方がないのではとひとり虚しく空を見上げていた、そんな私であったかもしれない。しかし、今は一羽の雀さえも顧みてくださる神様を知っている。私の幸せはここにある、だから心から歌うことができるのだ。自分で自分を赦すことも愛することもできなかったそんな罪深い私をも、主イエスは十字架の上ですべてを赦し、過去の愚かさからも、私を苦しめる底深い無価値観や失意からも解放してくださり、自由を与えてくださった。そんなイエス様を知った。だからイエスの名を賛美し、十字架を誇りとして生きることができる。だから私は歌うのだ。・・・そんな感動が英語の歌詞から、私に伝わってきます。あらためてペテロの次のことばが心に響きます。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7)
3. だから、誰の前でも信仰の告白を恐れてはならない
イエス様は「私を人の前で認める者は、人の子もまたその人を神の前で認めます」(8)と約束してくださいました。この言葉は、私たちが人や世間の眼をおそれず、信仰の告白やイエスキリストを信じて生きているという証しをすることを意味しています。父なる神様からこれほど愛されている。御子イエス様が十字架でいのちを捨てるほど愛してくださった。そんな真実な愛、永遠の愛に捕らえられている私たちです。幸せだから私は歌う、自由を得ているから歌う。だから恐れたり、恥ずかしがる必要などどこにあるでしょうか。自然体で生きて、ありのまま感謝と喜びを証しすればいいのです。
証しする、伝道するというと「クリスチャンとして立派な自分」を伝えなければならないと思い、肩に力が入ってしまわないでしょうか。伝えるのは立派な自分ではなく、イエス様のすばらしさです。知ってほしいのは自分の愛ではなく、イエスさまの永遠の愛です。
考えすぎると何の行動もできなくなってしまうことを、「ムカデの悩み」と言います。ある時、100本の足があるムカデが、ふと考え込んでしましました。はてな右から何番目の足を前に出すのだったかな、その場合には左から何番目の足を出せばよかったな・・今までスーッと歩けていたムカデでしたが、混乱してとうとう歩けなくなってしまいました。
完全や完璧さを求める世界も確かにありますが、まず気負わなくてやってみる、一歩を踏み出してみる、仲間との食事の前に短く黙祷して祈る、小さな十字架のネックレスをつけてみる、伝道用のうすいパンフレットをかばんに入れておく、それだけでも信仰の告白や証になるのです。私たちにできることは限られています。取り組めることも大きなことではなく、小さなことでしょう。でも何もしないよりは小さなことをひとつ行動に移すことは、神様の前には尊いことではないでしょうか。
「私たちになしうることは、永遠の無限のお方の愛を、この有限性に中でただほんの少し指し示すだけではないでしょうか」(ルカによる福音書 蓮見和男p41)
ほんの少し、永遠の無限のお方の愛を指し示す・・それが生きた証しなのですから