2022年7月3日 ルカ12:13-21
イエス様に訴え出た人がいました。「わたしとも財産を分けるように兄弟に言ってください」(13)。単数形ですからこの人の兄を指しています。この場合は財産を3等分して2/3は長男、1/3は弟が受け取ることに定まっていました(申命21:17)。どうやら彼は、兄から財産がもらえず不満だったようです。あるいは長男が法的な相続分を無視して、ひとりじめしていたのかもしれません。イエス様はそこに「貪欲さ」を認め、「貪欲によくよく注意しなさい」(14)「いのちは財産にあるのではない」(15)と諭しました。
1.貪欲に注意しなさい
貪欲はそこなしの欲望を指し、その対象は偶像となります。カトリック教会では「7つの大罪」と呼ばれ、6世紀後半のグレゴリウス1世(540年頃-604年)は「高慢」をすべての悪の根として高慢から生まれる「七つの主要な悪徳」として「虚栄、嫉妬、怒り、悲嘆、強欲、腹の貪食、淫蕩」の一つとして挙げられています。強欲には金銭欲、持ち物に対する欲、名誉や権力や支配欲などがあり、きりがありません。よくよく注意をしなければなりません。
15節でイエス様は「いのちは財産にあるのではない」と明言されましたが、ここでのいのちは「ゾーエー ζωη」が用いられ「永遠のいのち」を指しています。ちなみに19、20節のたましいは「プシュケー φυχη」が用いられ、肉体のいのちと関連します。永遠のいのちはお金で買うことはできません。所有物がどれほど高価で立派であっても、永遠のいのちと交換することはできません。そこで、イエス様はわかりやすい譬えを話されました。
2.「大きな倉を建てた愚かな人
このたとえ話には、3つの愚かさが強調されています。
1)自己中心
豊作のため大豊作となった。そこで彼はあれこれ思いめぐらし続けました(未完了形)。思案した挙句の結論は、もっと大きな蔵を建てて、「私の作物、私の蔵、私の穀物と財産」を蓄えよう」という答えでした。労苦した小作人たちにも分け与えよう、貧しい人々に差し出そう、お世話になった方々に感謝のお礼をしよう、大きな蔵をわざわざ建てる建築費があるならボーナスでも出そうという隣人愛にはいたらなかったのです。そんな考えなどみじんもよぎらなかった。すべてに「私の」がつく有様です。「お互いに」という発想もない。神様のためにという思いも、祈りもないというたいへん貧しい心の世界を表しています。
1階集会室に木製の大きなスプーンとフォークが飾ってあります。「天国と地獄の食卓」というユダヤ教の古い物語に由来しています。柄の部分が長すぎて自分では食べられません。そのため、食卓に座った向かい合う相手のために、お互いに食べ物を取って与えるという助け合いを表しています。
2)快楽主義
彼は自分のたましいにこう言って安心を与えました。「何年先もこれで安心。あとは休んで、食べて、飲んで、楽しめ」(19)と。この場合の「たましい」は肉体のいのちです。食べ物で支えられている肉体上の健康な自分自身です。驚いたことに彼は「安心せよ」と、自分で自分に言い聞かせています。神様の助けを仰ぎ求める思いなどは微塵もありません。神様に語り、神様に祈り、神様からの平安を得るという視点などは完全に脱落しています。考えるのは地上の楽しみごとだけです。神様抜きの人生の幸せは「食べて飲んで楽しむ」ことにつきます。イエス様の時代も、ノアの時代の人々と何ら変わりません(マタイ24:38)。そして現代も少しも変わりません。
3) 死は今晩訪れるかも
彼は「この数年は大丈夫」と考えました。ところがイエス様は「今夜、取り去られる」(20)と警告されました。そうすれば用意したものはだれのものになるのか。多くの富を得ても結局、人は裸で生まれ、裸で神の前に立つことになる。大きな蔵を背負って永遠のいのちの世界に入ることはできません。イエス様はたとえ話を通して、こう語りかけているようです。
3. 神の前における豊さとは
同じたましいと訳されてもゾーエとプシュケーは違います。地上のいのちを示すプシュケーはそのままでは永遠のいのちを受けつぐことはできません。終わりの時が来る。そしてその日その時は誰にもわからないのです。「今夜!」と神が定められれば誰も止めることはできません。ですから、プシュケーを持つ生きとし生ける者はゾーエを持たねばならないのです。そうでなければ、あなたの人生は「地上のいのち」だけで終わってしまうのです。
ではどうすればいいのでしょう。聖書ははっきりと道標(みちしるべ)を見せています。
ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハ 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ここでは永遠のいのちが、Ζωην αιωνιονとされています。神の御子をキリストと信じる信仰によって、永遠のたましいを得ることができるのです。
イエス様は「神の前に富む者となりなさい」と言われました。「天に宝を積む者となりなさい」とも言われました。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイ6:20)
神の前に富まない貧しいものにならないで、神の前に富む者となりましょう。天の蔵に納められるものは、第一に、信仰によって天に国籍を持つこと、すなわちあなたの名が天の「いのちの書」(黙20:12 ピリピ4:3))に記され、納められていることではないでしょうか。第二は御霊の賜物によってもたらされる神への感謝と隣人への愛の実です。人間的な努力や精進、熱心さによる実ではなく、神の御霊がおのずと結ぶ実です。
先日、天に召された山本兄の愛唱聖句はピリピ4:4でした。「主にあっていつも喜びなさい。もう一度、言います。喜びなさい」。経営者として幾多の困難を乗り越え、一人の信仰者として最愛の奥様を突然の交通事故で天に送るという最大の試練に投げ込まれました。それでも神の御霊は、深い悲しみと嘆きの中にある兄弟に、平安と喜びをもたらし、信仰の歩みを導き続けました。
この世的に富んで神を忘れることは悲しいことです。どのような境遇の中にあっても神と共に生きる中に本当の幸いがあるのです。