2022年7月10日 ルカ12:22-341
今日の箇所では「心配するのをやめなさい」という言葉が4回、「気をもむことをやめなさい」(29)という言葉が1回使われています。口語訳聖書では「思い煩ってはならない」と訳されています。 dont worry 現在形なので「思い煩い続けるな」の意味になります。前回は人間の「貪欲」についての主イエスの教えでしたが、今回は「思い煩い」「心配」についての教えです。欲が深いほど、欲深くかき集めたものを失うことを恐れて、思いわずらうことも深くなるとすれば皮肉です。考えれば、欲と心配はコインの裏表の関係と言えるかもしれません。
1. 思い煩い続けるな
人間ですから、何も心配しないとか思い煩わないとかというようなことはありません。心配のない世界などはどこにも存在しないからです。思い煩い、心配し、不安を感じることそのものは人間の自然の感情の動きですから悪でも罪でも問題でもありません。問題なのは「思い煩いがずーっと引きづってしまい、夜も眠れなくなり、そのことが頭から離れず、考え続けている状態」。 いわばストップがかからない状態。思い煩いの霊に取りつかれている状態です。長引けば長引くほど、身体も脳も疲れ切ってしまい、意欲もエネルギーも奪われてメンタルダウンを引き起こしてしまいます。2週間以上、悩み続けて切り替えができなければ、専門医に受診しなさいと一般的には勧められます。周囲の人は「心配せんでもいい」「気にするな」と励ましますが、当の本人にとっては、「気になって気になってしかたがない」わけですから、解決にならない。むしろ「気にするな」と言われることでいっそうつらくなってしまいます。そこで、今朝はイエス様の導きを学びましょう。
1) カラスのことを考えなさい。野の百合の花を考えなさい。(23-24)
考えるは、 observe 観察する、すなわちよく見て考えるという意味があります。部屋の中に閉じこもって、布団にくるまって、あれこれ考えていても答えはでません。解決は見つかりません。かえって思考の迷路にはまり込んでしまいます。イエス様は、外に出て、青空の下で、新鮮な空気を吸って、太陽の光を浴びて、心地よい風に吹かれながら、昆虫記を書いたあのファーブのように、野原ではいつくばってカラスや鳥のことをよく観察しなさい。野に咲く小さな草花をよくよく観察しなさいと教えておられるようです。その時、思いもよらなかった気づきや発見をすることでしょう。小さな鳥も昆虫も、草花も精いっぱいいのちの限り生きているすがたに感動しないでしょうか。神様は一羽の雀さえ顧みて下さるお方です。忘れず保護してくださるばかりか、カラスでさえも神様に用いられたではありませんか。旧約時代にはケリテ川のほとりで疲れ果て悩みわずらう孤独な預言者エリヤ(1列王17:3)に食物を届け、養うという尊い働きをカラスに担わせたではありませんか。野に咲く草花を注意深く見なさい、そのほのかな香りをかぎなさい。栄華を極めたソロモン大王でさえこれほど美しい衣装を身につけることはできなかったではありませんか。自分には何の価値もない、自分にはなんの役割も仕事もない、誰にも必要とされていない、役立たずの自分は生きている価値もないと嘆いている自分からきっと解放されることでしょう。自分には他の人と比べて人目を引くような輝きも美しさもないと劣等感の虜になって自分を苦しめている思いから解かれることでしょう。神が創造された世界にありのまま生きている鳥や、咲いている草花を観るためには、部屋の中にいてはいけません。外に出なければなりません。神が創造された自然界には私たちを癒す力が満ちているのです。人間の手によって造られた人工物は神の創造の作品には遠く及ばないのです。
2.)思い煩い続けていても何の力にもならない(25-26)
思い煩っても、いのちを少しでも伸ばすことさえできません。「少しでも」と訳された言葉の直訳は、寿命を1時間でも伸ばす、あるいは身長を45㎝伸ばすという意味だそうです。あれこれ心配して身長が伸びるなら背の低い人は一生懸命これから悩み続けることでしょう。反対に悩めば悩むほど睡眠不足になり成長ホルモンも分泌されず背も延びなくなってしまうことでしょう。つまり思い煩い続けてもそこからは何も得られない、いいことは何もないとイエス様は諭しておられます。思い煩うことと、深く思い巡らすこと、つまり黙想し、思慮深く計画し行動することとは異なります。あれこれ頭の中で想像し、時間があるだけ悩み続け、その結果「悩みの肥満状態」になってしまっていては、効果がないどころかかえって害が大きいのです。信仰よりも心配事が大きくなってしまった人を「信仰の小さな者よ(薄い者)」(28)(little-faith origopisutoi)とイエス様は呼んでおられます。
3)神の国(と義)を追い求めなさい(31)
思い煩うかわりに、神のことばを思いめぐらすことが魂の安定と安らぎにつながります。そこでイエス様は「神の国と義を追い求めなさい」(マタイ6:33)と、思い煩いからの最善の解決方法を示しておられます。思い煩い心配する時、そこには「ゴール」と「行動」が曖昧になっています。どうしたらいいのかわからない。何をしたらいいのか、いいえ何をしたいのかさえわからない。何を悩んでいるのかさえ分からなくなって、悩むために悩んでいるような状態に陥っている。つまりゴールもわからない、どう行動したらいいのかもわからないのです。イエス様は、生きる目的は「神の国と神の義」を目標にして、「追い求めるあるいは探し求め続ける(現在形)」(まず探し求め、ついで追い求め続ける)ことだと明確にゴールを指さし、行動を促してくださいました。
「神の国は神のご支配、神の義とは全被造物に対する神のご計画を指している」と、中沢啓介牧師(マタイ福音書注解)は強調しています。「天で、みこころがなるように、地にもならせたまえ」とイエス様は、主の祈りを通して弟子たちに教えました。地に御心がなるように、この目的のため、神様はイエスを信じる者たちと教会を用いようとなさっておられます。過ぎ行く地上のことばかりではなく、永遠の神の国に思いをはせなさい、何を食べようか、飲もうか、着ようかと欲に動かされ囚われ、思い煩うことよりも、神のみこころを求めなさい。神はこの地上の世界を、ご計画をもって歴史的に導いておられる。御国が完成する。そのご計画の実現のために教会とイエスを信じた人々を地の塩・世の光として用いようとなさっておられます。そのためにより多くの時間を喜んで神様にささげようではありませんか。
土曜日に朝から信徒が次々とご奉仕のため教会に来られます。庭の水やり、外階段の掃除、礼拝堂の掃除、集会室の掃除、台所やトイレの掃除、お花を生ける、オルガンやピアノの練習、聖餐式の準備、当番制ではなく自発的にみなさんが話し合って喜びをもって奉仕し、祈って帰って行かれる。そういう小さなこと一つ一つが神の国と義を求め続けて生きる姿勢そのものではないでしょうか。この地域は一人暮らし高齢者が多いのでかつてカフェマイムが開かれました。最近は世代が入れ替わって小さな子供たちがいる若い世代が増えているそうです。ふたたび教会学校を開く時が導かれてきそうです。教会の中だけでなくもっと広い世界に、海外にまで教育や医療や福祉の領域でクリスチャンたちが働きの場を広げ、小さくてもなくてならない存在として神様と隣人に仕えていくことは神様の喜びです。
あなたの置かれた場所が神の国であり、置かれた場所でそれぞれの花を咲かせましょう。父は喜んで神の国を与えてくださるのだから、恐れは無用です(32)。
「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、よろこんであなたがたに御国をお与えになるからです」(ルカ12:32)