【福音宣教】 福音は救いと癒しをもたらし人の尊厳を回復する

2022年8月14日  ルカ13:10-17

イエス様が安息日ごと(複数)に会堂で教えておられると、18年間も病の霊につかれた女性がいました。彼女は腰が曲がってまったく伸ばすことができない状態でした。

.イエス様の招きと癒し

女性(婦人)と呼ばれ老婆と書かれていませんから、加齢とともに腰が曲がったわけではないようです。成人脊柱変性であれば、強い腰痛、脊椎狭窄症による下肢のしびれや痛みなどの神経障害、胃食道逆流性の摂食障害などを引き起こすそうです。未完了形動詞が使われていますから、ずっと悩まされ苦しんでいたと思われます。

にもかかわらず、彼女は安息日の礼拝に集って、神のことばを聴き、病気が発症して以来18年もの長きにわたって苦痛や試練に耐えていました。会堂の中には立派な信仰の人々もいましたが、彼女こそ「信仰の人」ではないでしょうか。彼女は、イエス様に病気が治るように懇願したわけでもない。彼女の苦しみを知っている周囲の者がイエス様のもとに連れて来たわけでもない。痛みや試練も共に受け入れて、それでも18年もの間、礼拝に出席し、神のことばに耳を傾け、神を賛美しているまさに信仰の人でした。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ112)と記されていますが、イエス様のまなざしと慈しみが彼女に注がれないはずがありません。イエス様は彼女を招き「あなたの病気は癒された」(12)と宣言され、病を癒しました。まさに、やがて彼女が御国で受けるべき「いのちの冠」の先取りのような喜びではないでしょうか。さらにイエス様は「サタンの束縛から解いてやった」(16)とも言われました。終わりの日に、キリストがすべてのサタンの束縛、すなわち、律法からも、罪からも、病からも、死からも解放してくださる大いなる恵みの日の先取りのような救いの御業と言えます。
周囲の人々は彼女を「かわいそうな人」と呼んで同情したかもしれません。あるいは先週学んだように、彼女が不信仰で罪深いからこんな目にあうのだと冷ややかに見ている人もいたかもしれません。もちろん優しいまなざしを向けて、病気の彼女を仲間として受け入れ介護したり世話をしたりして手伝っていた人も多くいたと私は信じたいです。人の集まりには、口に出さなくてもいろんな考えの人がまじりあっているものです。だからこそ、病や障害を持っている人々を暖かいまなざしで見まもれる共同体でありたいと願います。

さらに、イエス様は彼女を「アブラハムの娘です」(16)と呼ばれました。ほっとした安らぎを感じるのは私だけでしょうか。彼女にとって「こんな私さえもアブラハムの娘、約束の国を受け継ぐことができる祝福された存在」とイエス様が見てくだっていたことはどれほど大きな喜びであったことでしょう。病気そのものの癒しよりも深い、魂の癒しとして届いたことでしょう。長期間にわたる病は自分のアイデンティティや自尊心を傷つけ奪っていきます。腰が曲がり下しか見ることができない姿、正面から人の顔を見れない姿、天を仰げない姿は、彼女を落ち込ませます。精神的社会的な痛み以上に、彼女に霊的痛み(スピリテュアルペイン)をもたらします。しかしイエス様のことばは、失いつつあった自尊心を回復し、アブラハムの娘として約束の国に入ることができるという約束と誇り、なによりも「神の民の一員」であるというもっとも大事な彼女のアイデンティティを回復してくださったのでした。これがイエス様だけがなしえる癒しと救いの本質でした。

2. 会堂司の憤り

さてこの時、イエス様を説教者として迎えた礼拝の司会者でもあった会堂管理者が、イエス様の癒しの業を見て、憤りました。その理由は「働いてよい日は6日もある。安息日には禁止されている、だめだ、律法に反するではないか」と会衆に訴え、イエス様と彼女を非難しました。ユダヤ教においては、安息日には一切の労働が禁じられていました。私たちには考えられないような厳格な細かい戒律が定められていました。イスラエル旅行をし、土曜日の安息日を経験されると実感としてわかります。安息日が始まる金曜日の夜6時以降は、観光客がカメラのフラッシュをたくことも、火をおこすこととみなされ禁じられます。エレベーターのボタンを押すことも立派な労働とみなされ禁じられますから、エレベーターはすべて各階止まりに切り替わります。

観光客が安息日に急病で倒れたらどうしたらいいのでしょう!と心配になります。もっとも、今日ではユダヤ人ではなくアラブ人の運転手が病院まで運んでくれるでしょう。リベラルなユダヤ人医療者たちが対応してくれるから心配いりませんが、2000年前のイエス様の時代にはそうはいきませんでした。

イエス様は彼らを「偽善者たち」(15)と叱責し、建前としての戒律を口にしながら、さまざまな抜け道を用意されている行為を非難しました。「あなたがたは牛やろばを水飲み場に連れて行って、水を飲ませにいくではないか」(15)と一例をあげ、彼らの矛盾を指摘しました。会堂管理者たちをはじめとする反対者たちは「恥じ入り」ました。自己矛盾や建前だけの宗教生活を「恥じる」ことができる人はまだましです。どこかで「気づいて」、イエス様が説く福音、すなわち、父なる神様の御心を理解し信じる「回心」の機会とすることができるからです。建前だけの律法主義から、神と人を愛する福音主義に方向転換することができるからです。

事実、使徒ペテロやパウロによって福音が宣べ伝えられると、多くの会堂管理者や祭司たちでさえ、回心し、イエスの教えに従うようになりました。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた」(使徒18:8)とあります。

3. まとめ

イエス様の教えを福音と言います。それは「神の御子イエスを救い主と信じることによって神の義を受けること」、福音に生きるとは「神を愛し、人を愛する」ことに尽きます。
そして神を愛するとは、彼女のようにどのような試練の中に置かれても、それでも神への礼拝をささげ続けていく真実さにほかなりません。教会堂でも自宅でも病床でも礼拝者として神の前に謙虚にひざまずくことです。

さらに人を愛するとは、その人の人格と人権を尊重して隣人として共に生きることを意味します。会堂管理者のように安息日だからと律法を盾に救いと癒しを拒んではなりません。イエス様のように、安息日だからこそ、癒しと救いすなわち、あらゆる束縛からの解放へと人々が招かれていくことを共に喜びあうのです。キリストのもとに来て、本来の人間性が回復されていくこと、クリスチャンであれば「アブラハムの息子、娘」としての霊的な尊厳とアイデンティティが回復されていくことを喜びあうことです     

律法は人を殺しますが、福音は人を生かします。

「ただ、神の恵みにより、キリストイエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ロマ324

  目次に戻る