2022年9月25日 ルカ14:15‐24
1. 神の国の宴会への招き
イエス様は立派なパリサイ人たちが招いた食事会で、新しいたとえ話を語られました。テーマは「誰が神の国の宴会に招かれるのか」です。
ある裕福な人が、盛大な宴会に親戚や仲間や友人などりっぱな人々を招きました。いよいよ時刻が近づいたので、礼を尽くし、しもべに迎えに行かせました。ところが、最初の人は、「畑を買ったので見に行かなければなりません」(18)と断わりました。次の人は「畑を耕すために5くびきの牛を買ったので、試しに行くところなので」と断わりました。三番目の人は「結婚したので行くことができません」と断ってきました。畑や10匹の牛を買ったり、結婚式を挙げたりと、この世的にはお金持ちだったのでしょう。買ったも、結婚したも過去のことです。これからのことならまあまあ事情もわかる余地がありますが・・。彼が招待するぐらいの宴会ならばたいしたことがないと失礼にも断ったわけです。
しもべの報告を聞いた主人は怒って、直ぐに「街の大通りや路地に出て行って、貧しい人々や障害を持った人々を連れて来なさい」と命じました。彼らは本来、宴会に招かれるに価しない人々でした。またお礼などなにもできない人々でした。さらに、まだ席が空いていたので主人は、「席が埋まるまで」(23)、今度は「街の外にある街道や町はずれの垣根の所へ行って。旅行しているような人々を連れて来なさい」と命じたというのです。
最初に招待状を受け取り、時刻前に丁寧に招かれながら、結局は断ってしまった人々は、パリサイ人や律法学者と呼ばれるユダヤ教の指導者たちを指しています。二番目に街の大通りや路地から連れてこられた人々は、同じユダヤ人でありながら、社会的な弱い立場に置かれていた人々で、貧困と病と障害で人生の重荷を抱え苦悩していた人々たいでした。パリサイ人や律法学者たちからは罪人呼ばわりされていた人々です。最後に「席が一杯になるように」、街道までしもべが出向いて迎えいれた人々は、外国人や旅行者たちでした。彼らは旅の途上で急いでいたにもかかわらず、主人は、「無理やり」でもいいから、「いっぱいになるまで」連れて来なさいと命じました。用意した料理を分かち与えたかったからでした。
ここには、大通り(プラティア)、小道(ルメー)、道(オドゥース)、垣根(フラグモス)と4つのことばが使われていて、学者によっては、「町中くまなく、あらゆるところ」、さらには道端、垣根のそばにいたるまで、「この世から疎外されている領域」にいたるまでを強調しているとも言われています。
このたとえ話は、神の国の宴に最初に招かれた神の選びの民、イスラエルの民と彼らを宗教的に始動したパリサイ人や律法学者たちへの厳しい警告となっています。「招かれた人で私の晩餐にあずかる者はいない」(24)
父なる神が遣わされた御子キリストの語る救いのことばを信じようとせず、救い主として受け入れようともしなかった不従順で不信仰な民への警告です。と同時に、本来ならばこのような豪華で盛大な宴会にとうてい招かれることにないような貧しい人々、何のお返しもできない人々が、惜しみなく招かれる「福音」にもなっています。
イエス様が丘の上で語られた山上の説教の第一声は、「こころの貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)ここで使われている「貧しい人」と同じことばが使われています。この貧しさは、無一文、極度の貧困、乞食を指すことばプトーコスです。辞典では、「この世でしいたげらえ、圧迫され、失望し、神の助けを必要とし、これにより頼んでいる人々を指している」(ギリシャ語辞典 山本書店)と記されています。神様以外に頼るものがない、誇るものがない、満たす者がない状態を指しています。
2. 私の宴会
イエス様はここで「私の食事を味わう者」(24)と言われました。御国での食卓を指しています。イエス様が語る神の国のメッセージを聞いて、居合わせた一人の人が感動して「神の国で食事をする人は何と幸いでしょう」(15)と言いました。イエス様はそのこと自体を決して否定されていません。むしろ最後の晩餐では、「私の父の御国であなたがたと新しく飲むその日までは、私はもはや葡萄の実で作ったものを飲むことはありません」(マタイ26:29)と、弟子たちに約束してくださいました。神の国においてキリストとともに食卓を囲む、なんと幸いなことでしょう。愛する人、大切な家族と愉しく食卓を囲むことは最高の喜びではないでしょうか。どんな豪華な料理が並べられていても一人で食べていては何の喜びもないでしょう。
復活されたイエス様は、失意のまま故郷のエマオ村に帰ろうとしている二人の弟子たちの家に泊まり、「共に食卓に着かれ、パンをとって祝福し割いて彼らに渡されました」(ルカ24:30)。この交わりを通して彼らのこころは再び熱く燃え、エルサレムの仲間たちのもとに急いで帰りました。
ガリラヤに戻り、ガリラヤ湖湖で再び漁に出た弟子たちを、復活されたイエス様は朝方、岸辺で炭火を起こし、魚とパンを焼いて待っておられました。弟子たちとの再会の朝、「さあ、朝の食事をしなさい」(ヨハネ21:12)と呼びかけ、焼いた魚とパンを振舞ってくださいました。おだやかなすばらしい朝の光景です。特別な豪華な料理が並んでいるわけではありません。しかし復活されたキリストと顔と顔を見合わせて食事を共にすることにまさる幸せはありません。
やがて私たちが地上での生涯を終え、天の御国に入る時の先取りの光景ではないでしょうか。この神の国での食事を、キリストは待ち望んでおられます。神の御国が完成する終わりの日に、私たちは神の国の祝宴において、神と共に祝いの食卓に着くことが許されているのです。来週は聖餐式ですが、聖餐もまさに神の国における祝いの食卓の先取りとして位置づけられています。
喜びを待ち望みましょう。
「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(1コリント13:12)