【福音宣教】 十字架を負うて生きる道 1 

2022年10月2日  ルカ14:25—27


イエスの後にぞろぞろとついてくるギャラリ-的な群衆に向かってイエス様は、厳しいことばを投げかけました。家族を捨て(26)、自分のいのちを憎み(26)、自分の十字架を負って(27)従ってきなさいと。こんなことを言ってたら誰もイエス様についていけないと心配するかもしれません。洗礼準備会でこんな話をしたら次回から誰も来なくなるかもしれません。2つの視点からイエス様の意図を考えましょう。

まず第一に、イエス様はまさに「時の人」でしたから、イエス様の周囲には、病気を癒してほしい、奇跡をこの目で見たいと好奇心から大勢のファンが押し寄せていました。ですからイエス様はこのような「冷や水を浴びせて」、多くの群衆の一人、取り巻きの一人ではなく、しっかりとした自覚をもって私を信じ、ついて来なさいと呼びかけたと理解できます。

日本でも、大相撲の初代貴乃花が引退し藤島部屋を創設した時、自分の二人の息子(後に二人とも横綱となって若貴時代を築く)が中学を卒業して入門を希望したとき、「これからは父とも兄とも思うな。縁を切って敵と思え」と言い渡して覚悟のほどを決めさせたというエピソードは有名です。第二は言語的な意味から考えましょう。

1. 自分の家族を憎みとは

文字通り受けとめたら大変なことになります。ユダヤ人はABとを比較して、Aの方を選んだり、優先する場合に、「Bを憎む」と表現したそうです。ですから、イエス様を家族のだれよりも優先するという意味になります。文字通り親を捨て、兄弟と縁を切ってという乱暴な意味ではありません。

子どもの時には親の言うことをよく聞いて従っていたが、青年になり自分の考え、自分の判断、自分の意志を大切に思うようになり、主体性が生まれてくれば、ときには親の反対を押し切ってでも自分が選んだ道を勇気をもって踏み出していくことも起こりえます。親の反対そのものが自分を心配しての発言であることがわかっているので、親の心配はありがたいけれど、「失敗も挫折も回り道もみんな自分の魂の肥しなる」と信じることができれば、やはり踏み出す道を選ぶのではないでしょうか。哲学者キルケゴールは「勇気をもって挑戦すれば、一時的に足場を失う。だが挑戦しなければ自分自身を失う」と言いました。父、母、兄弟、姉妹も素晴らしい存在ですが、それ以上に、御子イエスキリストは比類なき存在だからです。そしてイエス様に従うとき、時間は要するでしょうが、それ以前の親子関係、夫婦関係、兄弟関係以上に、さらにすばらしい関係をイエス様は築き上げてくださることでしょう。イエス様の赦しと愛と謙りの心を学ばなければ、親子といえども、夫婦といえども、晩年になればなるほどますます良くなるというよりは、賞味期限が切れて、味が落ち、だんだん怪しくなり、他人以上に冷たく険悪な関係に陥いってしまうケースを日常、見聞きしているのではないでしょうか。

30歳で故郷ナザレの村を離れ伝道の生涯に旅たたえるまで、イエス様がどれほど自分の母を愛し、どれほど自分の弟や妹たちを大切にしたか聖書は教えています。十字架の死を前にしてイエス様は老いていくマリアをもっとも信頼するヨハネに「そこにあなたの母がいます」(ヨハネ1927と託し、他の弟子たちが殉教の死を遂げていくなかで、ヨハネには100歳近い長寿を与え、母マリアを最期まで看取らせたことからも明白です。旧約聖書に記されているモーセの十戒の中の、人間に対する最初の教えは「あなたの父母を敬いなさい」(出2012であり、これは人類に対する普遍的な神の教えです。両親への愛と尊敬は神を信じる「信仰によって」引き上げられ、より深いものへと高められるのです。

2. 自分のいのちを憎むとは

このことばも同じ文脈で理解すべきです。いのちの向かう優先順位を教えています。自分のいのちのエネルギーは、自分が心を傾けているものに集中していく特徴をもっています。この地上の生活で自分が価値を置いているもの、大切にしているもの、誇りに感じるもの、なくてならないと手放さないで握りしめているもの、これからつかみ取ろうと追い求め続けているもの(地上の宝)に、いのちは関心と情熱とエネルギーを注いでいきます。あまり関心のないことがらや興味のないものには「フーン」の一言で終わっていきます。

私たちは限られたこの地上の生活で、何に価値を置き、何を大事に考え、何に情熱とエネルギーを注ぎ、「全集中!」しているでしょうか。あれやこれやと拡散してしまって、何をしてるのか、何を求めているのかわからなくなってしまう場合も多々あることかと思います。聖書は明白に方向を示しています。イエス様は群衆に向かって言いました。「まず神の国と義を求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ633)と。神の国と神様との関係を回復することに心を注ぎましょう。ピントを合わせましょう。あなたの宝のある所に心もある(ルカ1234)。のですから、

ビバリー・シェというアメリカの福音歌手がいます。小さな教会の聖歌隊のメンバーであり指揮者として神様に仕える日々を送っていました。思い切ってある有名なプロの合唱団のオーディションを受けたところ合格しました。迷いの中、母がピアノの上に置いた紙に書かれた詩が心に響き、彼は有名な合唱団の一員となって世界中で公演するという名誉や名声よりも、教会の合唱団の指揮者として神に仕える道を祈りの中で選びました。後に彼はこの体験をもとに「キリストには代えられません」(新聖歌428番)という有名な曲を作り、104歳で召されるまで、世界的な伝道者ビリー・グラハムとともに世界中を回って人々の救いを導き続けたのです。私も大阪の日生球場で聴いて感動しました。

3. 自分の十字架を負って従いなさい

イエス様は荒削りの十字架を背負ってカルバリの死刑場まで歩きました。粗末な飼い葉おけの中で産声をあげ、カルバリの丘の十字架の上で「父よ、彼らをおゆるし下さい」と祈られ、「父よ、私の霊をお受けください」と父なる神様にすべてを委ねて33年半の生涯を閉じられました。イエス様にとって十字架は単なる「苦悩」や「苦痛」を意味したのではなく、まさに神にさえ「捨てられる」という究極の「絶望」を意味していました。

しかしイエス様にとって十字架の死は悲劇的な死ではなく、自ら受け入れ選び取られた死であり、父なる神様から託された栄光の道でした。悲惨な運命の道ではなく、喜びに満ちた使命の道でした。強いられたのではなく自ら受け入れ、選んだ主体的な道でした。

イエス様は「自分の十字架を背負って従え」と言われました。神様は一人一人に生きる道をご用意しておられます。時には困難や試練や病や障害といった、できれば避けて歩みたいと願うような道をご用意される場合もあります。なぜと問いかけてもイエス様は静かに微笑まれることでしょう。「私も歩いた道だよ。あなたならきっと歩ける道だから」と。

歩む道を選ぶこともできるかもしれませんし、選ぶことができないかもしれません。大事なことは、どんな道であれ受け入れて歩みだすことです。受け入れることもまた、信仰によって可能となることでしょう。自分の十字架を負い、「わかりました、受け入れます」とイエス様に信頼して歩むことです。神が味方なら、何を恐れることがあるでしょう。

                         「それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ロマ8:31)


  目次に戻る