2022年10月9日 ルカ14:27―35
イエス様は群衆の中の一人、見物人の一人、傍観者の一人としてではなく、主イエスキリストを信じ、弟子の一人となって、主に従い、主に学ぶ者であるようにと願っています。
「招かれるものは多いが、救われるものは少ない」(マタイ22:14)からです。
そのためには、何よりも、この世の富・宝・名声・名誉を追い求める生き方ではなく、「神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)ことを尊ぶ生き方をイエス様は求めました。地上のものだけを貪欲に追い求めてもそれは移ろいやすく、真の満足には至らない。むしろ天にあるもの、すなわち永遠に変わらぬものを追い求めて、真の安らぎを得なさいと語りかけました。神はハッピーではなくブレッシングを与えようとしておられるのです。
イエス様の弟子となるためには、一時の情熱だけでは務まらないことを、2つのわかりやすい例を持ち出してイエス様は教えておられます。
賢い建築家なら、塔を築く時に総費用を計算する。そうしないならば完成しないまま資金不足で建築が中断してしまうからです。一時のバブル景気で高級ホテルや高級マンションの建設が始まったものの、資金切れで未完成のまま放置され廃墟と化して「幽霊ビルディング」になってしまっている光景を目にしたことがあります。建物であれば「完成する」ことに最大の意味があります。
さらに、賢い王なら、敵国と戦う時には、兵士の数を計算し、勝ち目がないなら無謀な戦いをせず、和睦する。そうすることによって国民のいのちを守ることができるからです。日本人は「最後の一人まで戦え」という「玉砕精神」を好み、「捕虜の辱めを受けるぐらいなら自決する」ことを美徳と考えます。欧米人とはずいぶん考えが違いますから、米軍を震えあがらせた「神風特攻隊」というような戦術は考えられないことだったと思われます。
1. まず坐って
ふたつの教えに共通していることは「まず坐って」次に「しっかり計算し」、「じっくり考える」という行動形式です。信仰に必要な3要素が、「座る、計算する、熟慮する」であれば、信仰は意外と「知的な作業」であると言えます。 何よりも「まず坐って」(26)(31)と訳されていることばは「どっしりと坐って」「腹を据えて」、日本的に表現すれば「丹田に力を込めて」という意味になります。腰がふらふらしてれば大事なことをなにひとつ進めることができません。
聖書的な表現をすれば「汝、静まりて我の神たるを知れ」に通じます。つまり「祈りなさい」「祈りの座につきなさい」という祈りへの招きです。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」(詩篇46:10)
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:18)
「絶えず祈りなさい。」(1テサロニケ5:17)
私たちクリスチャン、神の子どもたちの最大のよりどころは、父なる神様に「祈る」ことができること。これこそが強みなのです。忙しくて祈れないのではなく、祈らないのです。祈らないから霊的な力や霊的な平安や霊的な知恵が与えられない。祈らない代わりにあれこれ人間的な肉の努力や知恵や業に頼るから、本来、与えられている神の恵みを経験できないとすれば、大きな損失と言えます。祈りは私たちの不安、恐れ、焦り、いら立ちをブロックして、御翼の陰に覆ってくれる働きをしてくれるのですから。「まず坐って」祈るところから、すべての良き神の御業はスタートするのです。
2. 祈りの次には、「計算する、熟慮する」
信仰は意外と「知的な作業」です。一時の感情や、ブームや、雰囲気や、情熱ややる気だけでは途中で挫折してしまうことが多いのです。ペテロの失敗例がその典型といえます。
私の尊敬する牧師の一人は「ビジョン、ミッション、パッション」が口癖で、いつもたいへんパワフルです。どちらかといえば、走りながら考えるというタイプです。かと思えば、祈りに祈って、慎重に計算し、熟考を重ねて確実に進めるというタイプの先生もいます。いわば、考えてから走り出すタイプです。それぞれの牧師に個性があり、同様に信徒にも個性があり、教会にも個性があると思います。「座る、計算する、熟慮する」と「ビジョン・ミッション・パッション」が調和していることが、神が願っておられることではないでしょうか。イエス様は両面を兼ね備えておられました。
「真の礼拝者たちが、霊と真によって父を礼拝する時がきます」(ヨハネ4:23)と主イエスは異邦人であるサマリアの女性に語りました。霊と真によってというこの教えを、「真理の御霊に導かれ、真理のみことばに立って礼拝をささげる」と解釈する先生もいれば、「ハートは熱く、頭はクールに、神に礼拝をささげる」と現代的に解釈する先生もいます。結構、この理解はわかりやすくそれでいて実際的な解釈で、役に立ちます。宣教の情熱にこころは燃えつつ、落ち着いて冷静にこころ静かに神を礼拝するという調和のとれた姿勢は必要ではないでしょうか。
3. まとめ
イエス様は結論的に、この世的に私たちを最も強く引き付けるもの、つまり財産という偶像から離れ、身軽になって、従ってきなさいと招いておられます。それが「全財産を捨てて」(33)と強調されている意味です。文字通りではありません。
さらには「自分の十字架を負って従ってくるのでなければ」(27)と明言しておられます。イエス様はまさにカルバリの丘に通じる十字架の道を歩まれました。12弟子もそれぞれ十字架の道、すなわち文字通りの殉教の道を歩みました。
信教の自由が保障されている今日、殉教の道を歩むことは少ないかもしれませんが、それでも、主の弟子たちが、自分の十字架の道を歩むことは、主の弟子たちの普遍的な道であることには変わりありません。
しかしながらそれは決して、強いられたり、無理やり押し付けられたり、いやいや従うものではありません。イエス様のように、みずから受け入れ、主体的に歩みだす「私の道」と呼ぶことができる道です。「自らの十字架」ですから、他人と比較したりする必要はまったくありません。比較してしまうから「私の十字架」にならなくなってしまうのです。あなたはあなたなのですから。
もし、そのように生きればこの世では目立たない小さな存在かも知れませんが、なくてはならない「地の塩」(34)としてのあなたの役割をこの地上の人生で果たすことができると聖書は教えています。塩の役目は少量であっても、塩味を出すという無くてならない価値ある役割を担います。キリストにあって、意味のない人生などはありえません。だからこそ、「私の十字架」を受け入れ、しかも主体的に受け入れ、歩ませていただきましょう。