2022年10月16日 ルカ15:1―7
ルカ15章には3つの印象深い、例え話が記されています。
第一番目は迷い出た一匹の羊を探し求めて、必ず見つけ出して連れ戻す羊飼いの話。第二番目は手元から転げ落ちて見つからなくなった一枚の銀貨を明かりをともして隅々まで探して、見つけ出す持ち主の女性の話。最後は、家出をして放蕩三昧な生活のあげく身をもちくずしてしまったような息子を、必ず帰ってくると信じて待ち続け、しかもそのまま無条件で迎え入れた父親の話。3つに共通しているのは、あるべきところから失われてしまった状態にあること。にもかかわらず見つけ出され回復されること、さらにその時、周囲に大きな喜びがあふれることです。この3つの回復の物語を記す15章はそれゆえ「福音書の中の福音書」と呼ばれてきました。
1. 背景を理解しましょう。イエス様が食事会に招かれた時、その場に多くの収税人や罪人がぞくぞくと話を聞くために集まって来ました。その光景を見て、律法学者やパリサイ人と呼ばれる宗教的指導者たちが、つぶやきはじめ、さっそくいつものようにイエス様を批判しました(15:2)。そこでイエス様は、3つのたとえ話をされました。
2. まず最初に、羊飼いが登場します。
羊飼いたちはゆうぐれには野原から羊たちを囲いの中に連れ帰り、数を数えます。ところが一匹がいなくなっていることがわかりました。すると、羊飼いは99匹をほか仲間に託して、探しに出かけました。しかも見つけ出すまで探し続けました。「まで」ということばに羊飼いの愛の強さが強調されています。なぜならその羊は「迷っている」からです。羊は本来、方向音痴で、臆病で、牙も爪もなければ力もない弱い存在です。一人では生きられないのです。羊飼いのような導き手がいないと、どこへ行けばいいのかさっぱりわからなくなってしまうからです。
困ったことに、迷うまではそんな自分に気がついていない。群れていなくても一人でもちゃんと生きていけるはず。この私が道に迷うはずがない、ちゃんとわかっていると思っていた。ところが実際は、いつしか群れを離れ、迷いだし、行く道も戻る道もわからなくなり、不安と孤独をいやというほど味う結果になってしまいました。
この羊の姿は、なぜか、かつての私たちに似ていませんか?
自分はちゃんとできているし、誰かに頼らなくてもやってゆけるし、自信もあると思っていたが、意外なところでつまずき、深手を負ってしまった。動けなくなってしまった。行き先が見えなくなった、わからなくなった。さりとて引きかえすには遠くまできてしまっていまさら戻れない・・。そんな自らの姿と重なってきませんか。
昨日、ゲストをホテルに送ってフロントの長椅子の上にそのまま黒い愛用のかばんを置いたままうっかり帰ってしまいました。途中であわてて引き返すと、ポツンとそのまま残っていました。無事、見つかってほっとしましたが、ふと思いました。 自分が「忘れられたかばん」「取り残されたかばん」だったらどんな気持ちだろうかと。誰かに持ち去られるまえに、大事なお金をぬき取られる前に「早く迎えに来て!」と 叫んでるだろうなと。思わず「ごめんね」と、かばんが愛しくなり抱きしめました。
3. イエス様はこの羊飼いの話を次の言葉で締めくくっています。
「一人の罪人が悔い改めたなら、悔い改めを必要としない99人に勝る喜びが天にある」(7)と。まさにこれこそ、自称義人と誇っているパリサイ人たちに、イエス様が語り掛けたかったことばといえます。神の御こころは、罪人を裁いて切り捨てることではなく、見つけ出し、悔い改めに導き、神との関係を回復し、喜びをともに分かち合うことでした。
聖書が教える悔い改めとは、自分の過去を振り返って罪深い行為や言葉を反省し、悪かったと後悔し、心から謝る「懺悔」にとどまりません。もっと本質的なことを聖書は教えています。創造主である神のもとに立ち返ることを意味します。それは対人的な生き方というよりは対神的な生き方に関することです。ギリシャ語原語では悔い改めとは、「方向転換」を意味します。神に背を向け、自分本位、自己中心的な生き方をしてきたことに気づき、立ち止まり、回れ右をして神のもとに立ち返ることを意味します。さらに、聖書が記す「罪人」とは、犯罪者のことではなく、「神のもとから離れ去り、神を見失ってしまった人」を指すことも覚えましょう。それゆえイエス様は「罪人」と決して呼ばず、「失われた人」と呼ばれました。神との交わりという祝福を失っている根本問題に触れていこうとされたからです。
それゆえ旧約聖書では、このように呼びかけられています。「さあ、あなたは神とやわらぎ、平和を得よ。そうすればあなたに平和が来よう」(ヨブ23:21)
4. ところがここで新たな問題が生じます。だれが神のもとに正しく連れ戻してくれるのかという、導き手の存在です。誰が正しく神のもとへ連れ戻してくれるのでしょうか?その答えは明らかです。神が遣わされた者だけが、正しく神のもとへと連れ戻してくれるのです。イエスキリスト、このお方こそが私たちを間違いなく正しく神の御許へ、父のもとへ連れ戻してくださるのです。あなたがどれほど深く迷い混んでしまっていても、どれほど遠くまで来てしまっていても、「必ず見つけ出し」、連れ戻してくださるお方がいるのです。
「私は道です。真理です。命です。私を通してでなければ、誰ひとり父のみもとにくることはできません」(ヨハネ14:6)。ここで大切なことは、いのちに至る「道」を捜すのではなく、いのちへと導く「私」を捜すこと、つまりイエスキリストのもとにくることが重要なのです。イエス様の声を聞き、従っていくこと、それが「道」であり、神のみこころの道です。そして、このお方のもとに来れば、力強い言葉を聞くことがきるのです。
「私はよい羊飼いです」(ヨハネ10:14)と。
羊飼いは迷い出た羊を見つけたら、肩に担いで連れ帰ってくるそうです。なぜならもう一歩たり共たりとも羊が弱り果て歩けないことを理解しているからです。。「人生の重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい」(マタイ11:28)とイエスは呼びかけてくださっています。イエスキリストは十字架の上であなたのすべての重荷(罪も過ちも、後悔や自責の念も、死への不安や恐怖さえも)を負いきってくださいました。そして赦しを宣言してくださいました。
あなたが抱えている重荷は今、何でしょうか? イエス様の肩は、赦しの肩です。赦しの中に招いてくださるのです。十字架の赦しの中にのみ、まことの平安があるのです。
まとめ
神を忘れ、神から遠く離れ、人生を迷い出した者、失われた者を捜し出し、見つけ出し、その肩に担って連れ戻し、神と共に喜んでくださる救い主がおられます。良き羊飼いとなってくださるお方がおられます。このお方の牧場の羊とされることはなんと幸いなことでしょう。
「わたしはよい牧者です。わたしはわたしの者を知っています」(ヨハネ10:14)