2022年10月23日 ルカ15:8-10
クリスチャン作家・三浦綾子さんの自叙伝的三部作と言えば「道ありき」「この土の器にも」「光あるうちに」が有名で、神への信仰が一貫して記されています。
ルカ15章に連続して記されているイエス様が語られた3つのたとえ話(単数)、失われた一匹の羊を捜し求める羊飼い、失くした一枚の銀貨を捜しもとめる乙女、そしていなくなった弟息子を待ち続ける父親の話は、神の愛とキリストの救いを伝える三部作といえます。それゆえ「福音書の中の福音書」とも呼ばれています。
1. 失くした一枚の銀貨を捜し続ける乙女
・先週は100匹の羊の中の1匹を失った羊飼い、今週は10枚の銀貨の中の1枚を失った女性、次週は2人の息子のうち次男を失った父親が主人公になっています。見つけるまで「捜す」、帰って来るのを「待ち続ける」という動詞がキーワードになっています。
財布の中にたまたま入っていた10枚の銀貨の中の1枚をなくしてしまったので、「もったいない」から、ランプのあかりをつけて隅々まで探すという単純な話ではありません。ギリシャ通貨の1ドラクマ銀貨は労働者の1日分の日当に相当しますから今日に換算すれば、8000円から1万円ぐらいになります。ユダヤの国では10枚を1セットにつないで女性たちが首飾りとして身につけたそうです。ですから1枚をなくしても10枚をなくしたのと同じでショックでした。貴婦人が身につけるダイヤモンドや真珠には遠く及びませんが、貧しい家の女性たちにとっては10万円分の銀貨のネックレスは相当、価値ある宝物ものでした。
・ウィリアム・バークレーという学者は注解書の中で、ロマンチックな説明をしています。「パレスティナでは既婚女性のしるしは銀の鎖に10個の銀貨をつけた髪飾りでした。今日の「結婚指輪」と同じでした。この女性は長い間、貯金をしてやっと10枚の銀貨をそろえることができた。花嫁になる結婚式の髪飾りとして身につけるそうですから、彼女にすれば非常に高価で貴重な品というだけでなく、未来の夢や幸せが込められた大切な宝物だったのです。誰もそれを奪うことは許されなかった。借金の返済の為にすら、それを彼女から取り上げることはできなかった」(ルカの福音書注解)そうです。
それゆえ彼女が1枚の銀貨をなくしてしまった時、家じゅうくまなく掃除し、あかりをつけて隅々まで探し回った熱心さが伝わってきます。汚れて埃まみれになった銀貨でしたが、とうとう見つけられ、彼女の手に戻ってきました。彼女が、友人知人と共に喜び合ったという喜びも十分想像できます。
2. 銀貨に刻まれている像
・ところでローマやギリシャの通貨には、皇帝や王の肖像画刻まれていました。その肖像は「支配権」や「所有権」を表しています。ですからイエス様はパリサイ人から、私たちはローマ政府に対して税金を納めるべきでしょうか、拒否すべきでしょうかと問われたとき、デナリ銀貨に皇帝の肖像が刻まれていることを確認させ、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と答えました。本来の所有者に返しなさいという意味になります。神の国の民は、神の国に新しく市民権を持ちますが、同時にこの世の国にも当然ながら市民権をもっている。したがって両者に対して義務と責任を果たすことを教えました。極端な二元論に陥ることなく、あくまで神に仕えるようにこの世に仕えることを教えました。
さて、彼女がなくした一枚の銀貨にも確かにその時代の王の肖像が刻まれていたことでしょう。そこで次の問いかけをしたいのです。「ところで彼女自身には誰の肖像が刻まれていたのでしょう」と。
・子どものころ、母親が私たちの持ち物一つ一つに名前を書いたり、名札を縫い付けてくれました。家の中の電気製品であれ家具であれ車であれメーカの名が記され、丁寧に製造番号まで印刷されています。ところで、あなたや私、すべての人間には誰の肖像が刻まれ、誰のものとされているのでしょうか。本来、私たちは誰のものであり、誰に似る者とされているのでしょう。そんなのわかり切ったことであり、自分のものは自分のものじゃないですかと思うかもしれませんが、意外とそうではない現実を突きつけられますね。
・聖書は明確に教えています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創1:27)と。
本来、すべての人間は創造主なるまことの神のかたちに似せて創造されました。創造主である神ご自身が私たちの本来の所有者であり、神の手に中にある存在なのです。ところがいつしか神の手から転がり落ちてしまい、失われた存在となってしまいました。神が明かりを照らして捜し出してくださらなければ闇の中に埋もれてしまい、罪・穢れ・不従順不信仰・おごり高ぶりの中で埃まみれになって、本来の輝きや価値を失ってしまっていたのです。5世紀の偉大な教父であり神学者で会ったアウグスチヌスが著した「告白」の中で、人間は神によって創造された存在であり、それゆえに神のもとに立ち帰る時にはじめて本来の自分自身であることができるという信仰を教えています。「あなたがわれわれをあなたに向けて創られたからです、そのためわれわれの心はあなたのうちに憩うまでは安らぎを得ません」と。神のもとに立ち帰って神の中に憩うまでは、本当の安らぎを得られない。本来の自分自身を回復できない。いつまでも自分自身を見失い続けているというのです。どこから来てどこへ行くのか? 何のために生まれて来たのか、何が生きる目的なのか、深いところで迷い続け、自分を見失っているといえます。
・イエス様が語られた3つの譬えはすべて「回復」がテーマとなっています。つまりイエスキリストによって、神のもとに回復され、失われていた本来の存在価値と本来の生きる目的を回復していくこと、それがキリストの救いであり、福音であることを示しています。迷い出た一匹の羊の存在さえ忘れることなく顧み、見つけ出すまで捜し、肩に担いで連れ戻してくださる羊飼いは、イエスキリストご自身を現しています。
暗闇の中に転がり落ちてしまった一枚の銀貨を、灯りを照らして取り戻そうとする女性は、キリストの教会やそこに満ちる真理の御霊の働きを示していると言えるかもしれません。神のかたちに造られていながら、罪の中に転げ落ち、本来の価値や生きる目的を見失ってしまったような一枚の銀貨のような私たちを、真理の光であるキリストの御霊は、私たちを導き、本来の価値と生きる意味や目的を回復してくださいます。
・どう生きたらいいのか、モデルを捜すのが難しい時代です。あなたの信じるように生きなさい、あなたらしく生きなさいと言われても、自分を信じられないのですから生きようがない。そんな中にあって聖書はイエスキリスト、このお方こそが本来の「神のかたち」であり、このひとを見よと教えています。自分を見失った時はこの方を見れば良いのです。
「御子は見えない神のかたちであり、すべてのものが作られる前に最初に生まれた方です」(コロサイ1:15)「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ1:14)お方です。
誰でもキリストにあるなら、神のかたちに似せて新しく造られた者となります。キリストの御霊は私たちをキリストに似る者と変えて下さり、失われた本来の私たち自身を回復してくださいます。あなたの価値はキリストにあって輝くのです。そしてそこには、そこには喜びがあります。