【福音宣教】 我らの国籍は天にあり

2022年11月13日 召天者記念礼拝

今年も召天者記念礼拝で「召天者名簿」を拝読いたしました。42名を超える方々が、天国へ旅立たれました。お一人一人のお顔や語られた言葉、何より笑顔がよみがえってきます。

一人一人の顔かたちや個性も違うように、一人一人の生き方も異なります。またその死に方も異なります。90歳以上の長寿を全うして老衰で召された方、夜眠るようにして朝には天に召されていた方、長い病との戦いを経ながら平安に包まれて召された方々、不慮の事故で亡くなられた方、交通事故や火災などで亡くなられた方、誰にも看取られず一人で亡くなられた方など。。。しかしながら、キリストを信じて歩んだ方々には、揺るがない確かなものが3つあります。ピリピ3章20―21節に明確に記しています。

1. 国籍が天にあるという事実です(20

地にあるものはすべてが揺れ動いていきます。地震が地を揺るがすように盤石だと思っていたものが揺さぶられてしまうこと。津波のように大きな波が押し寄せすべてが根こそぎ押し流されてしまうこと、台風の暴風のように根こそぎ倒されてしまうこと、この地上の生活で碓かなこと、絶対大丈夫と思うことはありません。しかし、天にあるものは変わることがありません。いつまでも、永遠に存続します。

「私たちの国籍は天にある」とは、揺るぐことのない天の御国の市民権が与えられていることです。国籍を持っている国民は、国の保護を受けることができます。剥奪されることはありません。そして私たちは、キリストを信じる信仰により、無条件で天の祝福を受け継ぐものとされています。「朽ちることも汚れることも消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなた方のために天に蓄えられているのです」(1ペテロ14

2. 身体が贖われ完成されるという事実です(21

私たちの朽ちる身体は朽ちない永遠の身体に変えられるのです。永遠のいのちにふさわしい、永遠の身体を意味します。もし天国へ行って、そこでも病になり、病院に通い、最後は葬儀屋にお世話にならないとしたら、天国とこの世との区別はなくなります。そんな世界に価値はありません。悲しいかな天国では、もう牧師の仕事やお医者さんや看護師さんたち医療従事者の皆さんの仕事はなく、失業者となります。その分、地上では超多忙な仕事をしていますが・・・。

正直、病床で身体の苦痛に耐えておられる方々を看取ることは辛いものです。「これぐらいの痛みはイエス様の十字架に比べればたいしたことじゃありませんから」と静かに微笑まれた方もおられました。頭がさがる思いがします。臨終の直前には不思議なことに肉体の痛みが抜き取られ、安らかなお顔になられることがほとんどです。苦痛から解放されベットの上で「手をあげて、青い空が見える」といわれた方もおられました。慰めに満ちた主は、すべての苦しみや涙を拭い去ってくださり(黙示214)、安らぎを与えて、天の御国へ招いてくださいます。

幼くして天使のように遣わされ天使のように神のみもとに帰った赤ちゃんももいます。天国では本人をちゃんと区別できるのでしょうかと心配された方もおられました。

小出の持論ですが、イエス様が33歳で亡くなられたことには意味があるように思います。人としてもっとも麗しく健やかでいのちの輝きを放っている年齢ではないでしょうか。きっと一人一人がそのような栄光の姿に完成されているとすれば喜びです。再会の喜びが増し加わります「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる」(ピリピ321

3. 天の御国から救い主が来られるという事実です(20

地上の生活を終える時、私たちは天の御国に魂が移され、この地上でのすべての束縛から解かれ、安息と平安の中に憩うことができます。「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいる」とイエス様が約束されたことが、この身に起こるのです。エリザベス女王の国葬で、カンタベリー主教が、「栄光の扉が開かれる」と表現された通りです。

ところが聖書はもう一つの驚くべき約束を語っています。2000年前、神の御子が救い主としてこの世界に来られ、十字架の死と復活によって私たちをすべての罪を赦し、死の縄目と恐怖から束解放してくださり、信じる者に無条件で永遠のいのちを与えてくださいました。そのイエス様は新しい約束を与えてくださったことをわすれてはなりません。神の約束を預言といいます。

「もう一度、私はこの地上くる」という約束です。これを再臨と言います。この地上の世界をキリストが王の王、万物の完成者として治めるためです。失われたエデンの園が回復されるという約束です。救い主として世に来られた御子は、再び「王」として来られます。このことは、私たちがただ単に天国へ行く日を持ち望むという受け身的な人生を送るだけではないことを教えています。すでに天国の市民権をもつ、神の国の国民の一人として、地上での生活を少しでも神の国に近づくように精一杯、祈りと愛の奉仕にいそしむことを意味します。「天で御心がなるように、地にもなさせたまえ」(マタイ610)と祈りつつ、感謝と喜びをもって労することです。世界平和のためにというような大きなことを望む必要はありません。一人一人が置かれた場所で、神の国の市民として生きることを意味します。

ノートルダム清心学園の渡辺和子シスターが「おかれた場所で咲きなさい」と言われたように。一人一人に生きる場所が用意されています。渡辺シシタ―はある時、学生たちに教えました。

「人を100%信用してはいけません。98%信用しなさい、残りの2%はその人が間違いを起こした時のために残しておきなさい。そうすれば赦すことができるから。100%信用したら許せなくなるからです」と。学生たちはシスターなら120%、信用し信頼しなさいと言われると思っていましたから戸惑ったそうです。でも、2%は祈りと赦しのために残しておく、この2%が人を生かし、人間関係を和解と再生へ導く豊かな力となると渡辺さんは信じています。

天に召された40数名の方々は、一人一人が置かれた場所で花を咲かせ、地上の生涯を終えられました。その祈りと愛の奉仕を、天の神様は決してお忘れになることはありません。

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:12―14)  

これが神の国の市民権を持つ者たちの積極的な生き方、喜びをもたらす生き方と言えます。


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