2022年11月27日 ルカ16:14―18
今週からクリスマスを迎える4週間前、アドベント(待降節)に入ります。先日、宇治文化センターでは福音歌手の森裕理さんを迎えてクリスマスコンサートが開かれ、一足早いクリスマスを体験することができました。森裕理さんの賛美や証しに感動した人が多く涙ぐんでおられました。求道中の多くの方々に、今年こそ本物のクリスマスを教会で過ごしていただきたいと願っています。
1. 先週の礼拝では、イエス様が弟子たちに「神と富に兼ね仕えること」はできないと言われたことばを学びました。文字通りこの言葉を受けとめ、全財産を貧しい人々に惜しみなく分け与え、修道院にはいったニコラスという人物がいました。彼は後に聖人ニコラスと呼ばれ,英語読みの「セント・ニコラス」の名前がやがてサンタクロスの由来になったと言われています。白いひげを生やし、赤と白の服を着てトナカイに乗るサンタクロースの姿は「コカ・コーラ社」が宣伝のために勝手に生み出したイメージにすぎません。
聖ニコラスのように全財産をささげてイエス様の弟子となったクリスチャンもいれば、イギリスが生んだ偉大な説教者ジョン・ウェスレーのように「うんと儲けなさい、たくさん貯めなさい。そしてどっさり神にささげなさい」と人々を励ました人物もいます。どちらの人物も、富よりは神を愛し、富に支配され貪欲になり富の奴隷となるよりは、神のしもべとなって愛と自由に生きる道を選んだ人々でした。イエス様は弟子たちに禁欲生活を教えられたわけではありません。金銭や財産といった与えられた富を、神の栄光と隣人への愛のために豊かに用いなさいと教えられたのでした。
2. 「神と富に兼ね仕えることはできない」といわれたイエス様のことばを聞いて、イエス様をあざ笑った人々がいました。「ふんと鼻であしらった」(塚本虎二訳)のです。彼らは「金の好きなパリサイ人」(14)たちでした。パリサイ人とは、モーセ以来の「律法」と呼ばれる神の戒律を厳格に守ることで「救い」を得ることができると強調する人々を指します。ですから律法や戒律を良く学び、まじめに守り、質素な生活を過ごし、人々から尊敬されているパリサイ人も多くいました。しかし「金の好きな」パリサイ人も多くいたようです。表面上は戒律を守り、まじめな生活を送り、立派な人だと敬われながら、心の中は「貪欲」と「名誉欲」と「金銭欲」で満ちていました。
もちらん、「お金が大嫌い」という人はまずいないでしょう。生まれながらの私たちはみんな「お金が大好き」です。それが幸せになる道だと教えられて育ってきているからです。小学校の先生が「いのちの次に大切なものは?」と生徒に聞いたところ「お金」という言葉が一斉にかえってきたそうです。私たちクリスチャンも同じ質問を受けたら、ベスト5の中には入るのではないでしょうか。第一には聖書・信仰・愛・家族が入るでしょうが・・。物価高と年金生活、年を取りあちこち身体も弱ってきて、連日の医者通いで薬代もうなぎのぼりともなれば、ごく現実的な判断だと思います。金銭は悪ではありませんが、金銭を愛することが罪の根っこ(1テモ6:10)と聖書は教えています。神様から与えられた良きものを大事に御心にかなって管理し(1ペテロ4:10)、土の中に隠して眠らせてしまうのでなく、生かして用い、神の栄光を現すことは信仰による善き業なのです。
さて、お金の好きなパリサイ人に対してイエス様は厳しいことばを用いて非難しました。唐突に、パリサイ人に対する非難として次の言葉が用いられています。「だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。」(ルカ16:18)と。
一見すると、離婚と再婚の完全禁止命令のように思えることばです。離婚は相手に姦淫を犯させること、あるいは再婚を姦淫であると戒めているのでしょうか。イエス様の真意はどこにあるのでしょう。文脈から理解しましょう。
3 . 今日でも結婚・離婚はなかなか複雑な問題ですが、聖書の学びには、書かれた時代背景をしっかり理解することが特に重要です。イエス様の時代には離婚が安易に行われ、結婚生活が危機的状況にありました。すでに旧約聖書・申命記24:1には「男が妻をめとって夫となった時、妻に何か恥ずべきこと(不貞)を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は妻に離縁状書いて手渡し、妻を家から去らせなければならない」と記されています。旧約聖書の時代は完全に男性優位社会でしたから、女性は人間としての権利を認められていませんでした。離婚する権利はほぼ男性だけがもっていました。さらに男の側からの離婚の理由は、ほとんど何でもよかったようです。「恥ずべきこと」とは本来、妻の不貞を意味しますが、律法学者やパリサイ人たちによって拡大解釈が行われ「妻が声を立てて笑った、母親の悪口を言った、皿を落として割った、料理がまずい、外で男と立ち話をしていた、帰宅が遅い」等の理由もまかりとおっていたそうです。ラビ・アキバなどは「男が妻よりきれいな女を見つけた時にはそれだけで離婚の理由になる」とさえ、教えていました(バークレー)。
離縁状は二人の証人の前で書かれましたが、「離縁状はすべて私から出たもので、あなたは誰とでも意中の人と結婚してよろしい」と記され、妻には持参金が返却されました。このように紙一枚で、離婚はいとも簡単に行われ、神聖な結婚の絆が崩壊する危機的状況にあったと言われています。現代から見ればひどい話です。律法学者やパリサイ人といった宗教家たちによって、男性の都合の良いように、欲望と貪りに合わせて、「離婚」が正当化されていたのです。
そこでイエス様は「妻と離婚し、他の女と結婚する者は姦淫の罪をおかすのだ」と強調し、金の好きなパリサイ人たちの「勝手な解釈」と「安易な離婚」を厳しく批判したのでした。
今日、日本では離婚率は約35%、3組に1組(2019年)、約2分に1組が離婚しているというデーターが報告されています。離婚世代は30代が最も多く、さらに結婚生活5-9年目が最初の危機で21%。次いで20年以上が20%。熟年離婚が多いのが日本の離婚の特徴です。離婚理由は男女とも「性格が合わない」となっています。2000年経た今日でも、離婚が安易に行われている現実に大きな違いはありません。
4. 創世記において結婚は神によってデザインされ、神の御手の中で男女が結び合わされ、ひとつとなり家庭を築いていく神聖なものとされています。互いが「助け手」となり、ベストパートナーとなって仕えあい、愛を学びあい、愛を深めていく中で結婚生活が祝福されていきます。三浦綾子さんは「結婚式は誰でもできるが、結婚生活が重要であり、お互いが愛において成熟していくことが大切」と言われました。
創世記2:18と創世記2:24で結婚の普遍的な本質が啓示されています。
ところが、この理想的な在り方はアダムの堕落以来、崩壊し、時代の経過とともに危機的状況に陥ってしまいました。イエス様の時代には、こともあろうに、律法学者たちによって、先ほどのように都合の良い解釈が作りあげられ、神様が願われた「結婚」のありかたが、歪められてしまいました。 それゆえイエス様は「神が合わせたものをひきはなしてはならない」(マタイ19:6)と命じ、結婚の原点を再確認され、パリサイ人の過ちを正されたのでした。
5. 神のみこころは普遍であり不変です。その御心が文字で記された「神の戒め」や「律法」は、それゆえ本来「その一点一画もすたれることはない」(17)永遠の真理です。しかし、アダムの堕落以来、歪められ、間違った方向へと誤用されてしまいました。イエス様はすべてを回復するために、この世界に来てくださり、完成させてくださる、「世の救い主」であり、万物の回復者でもあるのです。
ただし、現代に生きる私たちは、イエス様のことばを「新しい律法」としてしまうことには、十分注意しなくてはなりません。残念なことに、キリスト教の歴史の中で、ユダヤ教の戒律にとって代わって、新しいキリスト教律法が次々と教会によってつくりだされてきたことも事実です。その結果、教会からいのちと自由を奪い取り、差別や偏見に満ちた裁きの場に陥いらせた過ちを二度と繰り返してはなりません。無自覚のまま、新たな律法主義に陥っていないか謙虚に振り返ることが求められています。
教会とクリスチャンにとって原点とすべき戒めは、ただ一つです。イエス様が定められたただ一つの「愛の戒め」だけであることを覚えなければなりません。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。(ヨハネ13:34)
しかもこの新しい戒めには「私があなたがたを愛したように」と、条件が付けられています。キリストの十字架の愛を指しています。イエス様の十字架の愛を学ばなければ、互いに愛し合うことはできません。生まれながらの私たちはいとも簡単に、愛を憎しみに変えてしまい、赦すことを忘れてしまうのです。
律法と預言はバプテスマのヨハネまでです。それ以降は「神の国の福音が宣べ伝えられています」(16)とイエス様は語り、「神の国の福音」宣教とともに新しい時代が来たことを宣言されました。 戒律を守ることが「信仰」ではなく、主イエスを信じ、信頼し、従うことが「信仰」であり、飼い葉おけの中で誕生し、十字架で死なれ、復活されたイエスをキリスト(救い主)と信じることが「救い」なのです。神の国は遠い将来にではなく、キリストがおられるところ、「今ここ」がすでに神の国として始まっていると受けとめる必要があります。キリストを信じる私の人生、私の生活、私の心の中にすでに神の国が始まっていると信じて、生きることが信仰なのです。
そしてそこでは「戒律や律法」を基準とする古い生き方はすでに過ぎ去り、キリストが私たち罪人を愛し、十字架で赦してくださった、「神の愛」を基準とした新しい生き方がそなえられたのです。律法ではなく、キリストの御霊に日々、導かれながら歩む、神の御国の市民としての新しい生き方が創造されたのです。
旧約聖書に記されている「613もの戒律」を守るほうが、ただ一つの「愛の戒め」に生きるよりは、実は容易いのです。マニュアル通りにすればいいのですから。ところが、キリストのただ一つの愛の戒めに生きるには、祈りと信仰が必要なのです。祈りと信仰なくして愛は全うできません。しかしそこにこそ、神の国の福音に生きる喜びがあるのです。結婚の幸いがそこにあるのです。
御国に国籍を持つ市民として、このキリストの新しい戒めに生きるものとされましょう。
「ここに愛がある」(1ヨハネ4:9)
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