【福音宣教】 超えられない大きな淵

2022年11月27日 ルカ16:19―31

有名な金持ちと路上生活者ラザロの死後すなわち永遠の運命に関わるイエス様のたとえ話です。語っておられる対象は「金の好きな」(14)パリサイ人や律法学者たちに対してです。この文脈を理解しなければなりません。

ユダヤ教の指導者たちにとって、富が豊かであることは、神の祝福であり、貧乏は神の裁きのしるしであると考え、貧しい人々は罪人とさえ呼んで差別していました。そんな当時の宗教指導者たちの考えや常識をひっくり返したのがイエス様でした。「貧しい人は幸いである。神の国はその人のものである」(ルカ620)、「富んでいる者が神の国に入るのは難しい」(ルカ1825)とさえ言われました。

1. 二人の地上の生活と死後の生活

貴族しか着れないような高価な紫布の上着とエジプト産の高級な細布製の下着をまとい、ぜいたくに遊び暮らしていた大金持ちと、その家の門の傍らで物乞いをしていたラザロと呼ばれる路上生活者がいました。彼は全身、できものでおおわれ、苦しんでいましたが、そのお金持ちから憐れみを受けることはありませんでした。ラザロとは「神は救い給える」(エレアザル)という名前ですから、貧しいながらも信仰に生きたことが示唆されています。

孤独なラザロは病のため人知れず死に、その遺体は役場の人の手でごみ同様に処分されましたが、「天使が彼をアブラハムのふところへ」つれて行きました(22)。アブラハムのもととは「慰めと安息の場所」を意味します。一方、金持ちは盛大な葬儀が営まれ、立派なお墓に葬られました。しかし、金持が目を覚ますと、苦しみながら「黄泉」にいました。そこには天使もアブラハムもいません。「火炎の中で苦しむ」(24)、「苦しみの場所」(28)でした。

これはたとえ話ですから、文字通り解釈する必要はありません。しかし、死後の世界があり、一方は神からの「慰め」を受ける安息の場所であり、一方は苦しみの場所であるという厳粛な事実だけは厳粛に受けとめなければなりません。

「人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定められている」(へブル9:27)。それゆえ、「神に会う備えをせよ」(アモス4:12)と聖書は強調しています。

では、その分かれ目はどこにあるのでしょう。イエス様の教えは第一に信仰、第二に隣人への愛でした。しかもこの二つはバラバラのものではなく、二つで一つのものとされました。イエス様は、「神を愛せよ」それと共に「あなたの隣人を愛せよ」と命じています。神を愛するという信仰は、そのまま隣人を愛する実践と一つに結び合わされていました。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:38―39)

富のゆえに隣人を見失ってはなりません。貧しさのゆえに神を見失ってもなりません。それが神を信じる者の歩む道です。旧約時代に生きた知者はこのように語っています。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30:7-9)

信仰は愛によって見える化され、愛は信仰によってのみ持続的に支えられます。キリスト教の教理を良く知っていることが信仰そのものではなく、イエス様がそうされたように隣人への愛に生きることが信仰の生きた姿です。しかも律法学者やパリサイ人にとって「隣人」とは、同じユダヤ人同胞にのみ狭く限定されていましたが、イエス様は貧しい人々、遊女、収税人、病人のみならず、サマリア人、異邦人までも「隣人」とされ、等しく接し、「わたしのもとに来なさい」と招いてくださいました。イエスキリストにあっては何の区別も差別もなく、すべての人々が神の救いと助けを必要としている隣人でした。そこでは、尊いのは愛によって働く信仰でした。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、がないなら、何の値うちもありません。」(1コリ13:2)

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラ5:6)

2. 超えられない淵の存在

この譬え話の第二のポイントは「超えられない淵」の存在です。「ラザロを遣わし私の舌を冷やしてください」と金持ちが願ったとき、「私とあなたとの間にはおおきな淵があって、こちらからそちらへ行くこともできないし、そちらからこちらにくることもできない」(26)と、彼の願いは拒否されました。「大きな淵」の存在が、アブラハムを通してはっきりと告げられています。

この世とあの世とは行き来が可能と言うのが一般的宗教の教えのようです。死者と生者は交流ができるのです。これは日本人には馴染みがある考えです。芥川龍之介の小説「くもの糸」の世界が象徴的に表現しています。そこでは往来可能の世界観が繰り広げられています。境界線が非情に曖昧という特徴がみられます。偶像礼拝の特徴といってもよいでしょう。

しかし、聖書は「神の時」があることと「深い淵があること」を明示しています。旧約聖書では、ノアの箱舟の戸が「外から神の手によって」閉じられたことが警告として教えられています。人間の手では外からも内側からも開くことはもう不可能でした。始まりの時があり、終わりの時がある。そして、死者と生者の世界には超えることのできない深い淵が存在している。だからこそ、今、生かされてい生きているこの時が大事であり、大きな意味を持っています。

もちろん、「そんな冷たい非情な神は信じない」と反発する人がいるかも知れません。大切な真実を曖昧にしたまま葬り去ってしまうことの方が非情ではないでしょうか。神は非情で冷酷なお方ではありません。忍耐の限りを尽くして待っておられます。

地上で生かされて生きている限りは、最後の瞬間まで、救いの時は用意され、恵みの機会は開かれています。イエス様と共に十字架につけられた強盗は最後の極みで、「あなたが御国の位に着かれる時には、私を思い出してください」と精いっぱいの信仰の告白をしました。その時のイエス様の答えは「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイスいる」(ルカ23:43)でした。行いや善行が何一つなくても、イエスを救い主と信じる信仰のゆえに、神の御国に招かれる。これが福音であり、イエス様の救いの良き知らせなのです。

金持はアブラハムに願い出ました。「苦しみの場所に来なくてもいいように私の兄弟たちにラザロを遣わしてください」(28)と。しかし、「モーセと預言者に耳を傾けないなら・・聞き入れはしない」(31)と、アブラハムは彼に告げています。こうしてパリサイ人や律法の専門家たちに対してイエス様は警告を与えています。聖書を正しく読みなさい、聖書を通して、神の救いのみこころを正しく理解しなさいと。

今や「律法と預言はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が、宣べ伝えられている」(ルカ16:16)からですとイエス様は宣言されました。イエス様の言葉を聞いて信じる者はいのちを持つことができます。新しい恵みの時代がキリストの誕生と共に始まったのでした。クリスマスはまさに「神の国の宣教の始まり」でもあるのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

  目次に戻る