2022年11月27日 ルカ17:1-4
先週はイエス様に敵対するパリサイ人たちに対する警告でした。彼らの特徴は「金の好きな」とイエス様から鋭く見ぬかれていたような「貪欲さ」でした。
今日の箇所は弟子たちへの教えです。弟子たちの交わりのなかで、教会の兄弟姉妹の交わりの中で3種類の人が生じてきます。つまずく者、つまづきを与える者、さらに悔い改めたものから赦しを求められた者です。イエス様は
1. つまずく者に対して、つまずきは避けられないと教えています。
2. つまずきを起こす者に対しては、厳しい裁きを受けると教えています。
3. 悔い改めた者に、赦しを求められた者に対しては、赦しを与え続けなさいと教えています
1. 「つまずき」というギリシャ語はSKANDALAで、わな・誘惑・醜聞の意味で用いられ、複数形でイエスは用いています。
イエス様につまずかせること、教会につまずかせること、信仰につまずかせることなどを意味します。複数で用いられていますから、数が多いことを示していますが、小さなつまずきがいくつか積み重なっていることも示しています。大きな岩にけつまずく人はいませんが、小さな石にけつまづくものです。「それぐらいは」と気にせず流せる人もいれば、「そんなことで」と思うような些細なことでつまずいたり、怒ったり、赦せなかったり、いつまでも根に持ってしまうこともあります。
「このような出来事は避けられない」とイエス様はあらかじめはっきり語っておられます。弟子たちの交わりの中でも、誰が一番偉いかと競争し合い、お互いを非難し合ったほどでした。つまり、イエス様を信じている者たちであっても、みんな罪赦された罪人、人間的な弱さを抱えた罪人、心の傷を癒されてもそのかさぶたやささくれを抱えている者たちの集まりですから、「完全さ」はあり得ないのです。ですから「教会に完全さ」を持ち込んでしまうことを避けなければなりません。
イエス様が弟子たちに「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし元気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と約束してくださいました。イエス様を信じて生きていても、「悩みがある」という避けられない現実を直視し、ありのまま受け入れながらも、それでもなおキリストの勝利と希望を信じて、今日も明日も歩んで行くことが生きた信仰の道と言えます。
2 つまずきを起こす者は「災い」であるとイエス様は、かなりきつい口調で叱責されています。「不幸だ」「悲惨だ」「のろわれよ」とさえ、訳されることばです。特に「教会の中の小さな者たち」(2)「私を信じるこれらの小さい者一人」(マルコ9:42)、つまり、弱い立場の人々、影響を受けやすい人々、信仰的に十分成熟していない人をつまずかせてしまう者には、滅びが待っていると強調されています。「首にうすをつけて海に投げ込まれたら」、さすがに水泳のオリンピック選手でも泳ぐことなどできません。一気に海底に引き込まれておぼれ死んでしまうことでしょう。
教会の交わりは、強い人を中心にするのではなく、弱い人を中心にする構造が求められています。この世は強い者、エリートが中心になって動かしてゆき、弱い者はおいていかれる世界です。教会の交わりを羊の群れにたとえるならわかりやすいかもしれません。もし羊飼いがいなければ、羊は自分たちで狼などの外敵から身を守らねばなりません。牙も爪も力もない羊たちが自らを守る方法を知っていますか?。小羊たちを真ん中において親羊たちや若い羊たちがその周りを何重にも取り囲むのです。こうして若い小羊のいのちを守り、次の世代へと引き継いでいくのです。
人間世界は正反対ですね。強い者が弱い者を犠牲にして生き残っていく弱肉強食の世界が繰り広げられます。数年前、韓国で積載オーバーのフェリーが横波を受けて傾いて沈没して、修学旅行中の多くの若者が犠牲になった痛ましい事故が起きました。船長がまっさきに一般乗客に変装して逃げだし、その姿が映像に映し出されていたことなどは典型例です。
3. 3番目は兄弟姉妹をつまづかせてしまった者が、諭され、もし悔改めたなら、そして赦しを求めたならば、どうするか? という問題です。イエス様の教えは、「悔改めるなら赦しなさい」(不定過去 きっぱりと赦しなさいの意味)です。そこに条件は何も付いていません。私たちはしばしば、感情的に拒絶し「絶対ゆるしません」と口にします。子供を事故で亡くした母親が加害者である運転手を「絶対赦しません」と涙ながらに訴えるニュ-スを見たことがあります。痛いほどその気持ちはわかります。あるクリスチャンが加害者を「赦します。でも決して忘れません」と語ったことを聞いたことがあります。「赦します」という言葉が出るだけでも信仰だなと正直私は思います。みなさんはいかがですか?
驚くことにイエス様は、「悔い改めます」と言っては罪を犯し、1日に7度「悔い改めます」と口に出すような時でも、「その度ごとに赦しなさい」とさえ言われました。本当にこの人、悔い改めたのか? いいかげんなこと口にするなよ、本気で悔い改めたというならその証拠を見せろとつい私たちは言いたくなります。現実にはこんなことはあり得ないでしょうから、仮定の話であり、イエス様の強調的表現と受けとめたらいいかと思います。
事実、真の悔い改めは、御霊によって導かれますから、行動の変容という実を結びます。口先だけの「反省」ならば何度でも繰り返しますし、「猿でも反省」はできます。御霊による悔い改めは、その生き方に根本的な変化(新しさ 2コリ5:17)をもたらします。
イエス様がしっかりと弟子たちに伝えたいメッセージは、「悔い改める者をゆるさない」ことが教会の中であってはならないということではないでしょうか(岸義紘)。
教会がそのような交わりをこの世の中にあって創り出していくことが求められているのではないでしょうか。この世は罪を犯した者を処罰しますが、教会の交わりは赦しの中に共に生きる世界です。教会堂の屋根や礼拝堂に十字架が掲げられるのは、単に教会のシンボルとして掲げられるのではなく、私たち一人一人の生き方が十字架の赦しの中に生きることの証しとして掲げられるのです。「赦さなければならない」「赦すべきだ」という律法に生きるあり方ではなく、イエス様の十字架の赦しの中に身をおく者として、私たちも御霊に導かれて「赦されたように赦しに生きていく」ものとされているのです。
羽鳥明先生がアメリカ留学中、生意気に教授に反抗したそうです。後に悔い改めてお詫びの手紙を書き送ったところ返事が届いたそうです。そこには短く「I Forgive I Forgot Foever 赦します、忘れました、とわに」と書かれていたそうです。十字架の赦しのめぐみに生きることを老教授から学ばせていただいたそうです。
年末に大掃除をしますが、心の大掃除も必要ではないでしょうか。積み残したことやり残したことがありませんか。怒り、恨み、憎しみ、赦せないことなど・・。未処理のまま残っていないでしょうか。 今、十字架の赦しの下に置く時ではないでしょうか。
「7度を70倍するまで赦しなさい」と言われた主の御声を聞くときではないでしょうか。
「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(2コリント2:7)
「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。」(2コリント2:10)