【福音宣教】 信仰に生きる

2022年12月18日 ルカ17:3-6


イエス様は弟子たちに、教会の交わりの中の一番小さな者につまずきを与えないで保護すること。さらに、七度、罪を犯し、七度、赦しを求めてきた時には、赦し続けなさいと教えました。それを聞いた弟子たちは、それは信仰がなければとうていできないことだ、自分の信仰ではとても足りない、及ばないと感じ、「私たちの信仰を増し加えてください」(5)と願い出ました。自分たちの信仰のレベルではそんなことはできないと思ったからです。私たちもそのような思いを抱くことがありますね。

1. からし種一粒の信仰

・ここでもまたこの世の「比較と競争」の原理が忍び込んでいます。難しいことをするには大きな信仰、強い信仰、立派な信仰がいるのだ!。それにくらべて自分の信仰レベルは低すぎる、小さすぎる、まるで役に立たないと。大きな信仰が大きな神の恵みを引き出すのだ、私の強い信仰が神の力強い御業を呼び起こすのだと。だから「信仰を増し加えてください」という願いになる。こうした考えは2重の意味で、間違っているようです。

第一の間違いは、信仰を、目に見える量や強さではかってしまうことです。強い弱い、深い浅いと立派かそうでないかを問題としてしまうことです。信仰はあるかないか、ふたつにひとつの世界、1かゼロかの世界です。ところがゼロと1の世界の距離はものすごく遠いのです。

信仰があるかないか、ゼロの世界は信仰などまったくない世界を意味します。神の存在も認めないし、生きておられる神が祈りにこたえてくださることもありえない。キリストの十字架の罪の赦しも、復活による死からの解放も、すべてが神話・作り話にすぎません。人は死んだら終わりで、生きている間がすべてである。そして人と物と金で動いているのが世界のすべて。うまくいったのは運が良かっただけ・・。信仰がない世界は、なんかさびしい世界ですね。

一方、信仰があるとすればそれは「からし種一粒」ほどの大きさで十分だとイエス様は言われています。つまり、信仰の大きさや強さなどはまったく問題にならないと言われるのです。聖書が教える信仰は、からし種一粒ほどの小さなものであっても十分なのです。なぜならその一粒の種の中には、やがて実現する「神の国すべてのいのちと力」が秘められているからです。私たちが今ここに存在しているのもたった1個の0.06mmの小さな精子と0.12mmの一個の卵子の出会いからすべてが始まりました。そんな小さな存在から、今の私たちのすべてがはじまりました。小さな信仰であってもそれが存在しているならば、それで十分なのです。世界を見るのに巨大な大きな目を必要としませんね。私のような小さな目にも世界は十分映っています。

第二の間違いは、信仰そのもが神から与えられた贈り物であることを忘れてしまっていることです。神は私たちのこころに永遠を思う思いを与えてくださいました(伝311)。「あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ28)。神の恵みと神への信仰も神からの贈り物であることをパウロは教えています。

神からの贈り物に対してその価値を小さく見積もってはなりません。信仰という神からの贈り物を受け取っているか拒んでいるかはとても大きなことなのです。神の恵みを小さなものとしてしまってはなりません。お年玉で子供がおじいちゃんから1万円札をもらって、もっと大きな一万円札が欲しいというのに似ています。そんな大きな一万円札は存在しません。あるとすればおもちゃの紙幣に過ぎません。飴玉1個も買うことができません。信仰の大きさ小ささが問題ではなく、神からの贈り物としての信仰をもっているかいなか、受け入れているか拒み続けるか、それが問題なのです。

2. 信仰はあるだけでなく、神に焦点をあわせていることが大切です。

・めがねがないとぼやけてしまって字が読めなくなってしまいます。ところがメガネを持っていても、度があってなければやはり鮮明に見ることができません。いわゆるピンぼけ状態となってしまいます。その結果、だんだんと眼性疲労、頭痛、肩こりなどを引き起こしてしまいます。からし種一粒の信仰で十分だとイエス様は言われました。しかし、その信仰は神様にあるいはイエス様にしっかりと焦点があっていることが大切になります。神に焦点があっていない信仰は、「自分自身や他人や直面している問題自体」に焦点があってしまっているのです。神に焦点があっていれば、どんな大きな問題に直面していたとしても、神様より大きく見えてしまことはありません。ところが問題に焦点が当たってしまえば、神様よりもその問題が大きく見えてしまい、パニックになってしまうのです。全世界を創造された神ご自身よりも、大きな問題などはこの世に存在しません。

・JBフィリップスが書いた「あなたの神は小さすぎる」という本を若い時に読みました。自分を悩ましている「他人」や「問題」に心が奪われていると、神様が小さな存在になってしまう。そうなると不安が大きくなり悩みもますます大きくなっていきます。神に焦点が当たっていれば、不安と恐れは小さくなっていきます。大事なことはあなたが信じている神が大いなるお方であることに、あなたの焦点が当たっているか否かによるのです。

「あなたの信仰があなたを救った」「あなたを癒した」(ルカ75084817191842)とイエス様が4度も言われたとルカ福音書は記しています。「私」の信仰が強調されているように思えますが、そうではありません。丁寧に表現すれば、「神を信じ、私を信じることに焦点がしっかり当たっているならば、そのあなたの信仰が、たとえ小さくても、神ご自身の大いなるみわざをもたらした」ということになるのです。繰り返しますが、「あなたの信仰が大きいか小さいか」が問題ではなく、あなたの信仰が、イエス様に焦点があっているかいないかが大事なのです。

3. 信仰は神の恵みの通路として働きます
・クリスマスを前に、私たちは御子の受胎をマリアに告げた天使と、受け入れたマリアとの対話に目を止めましょう。聖霊によってあなたは身籠ると天使から告げられ、戸惑っているマリアに対し、天使は「神にとっては不可能なことは何一つありません」(ルカ137)と告げました。マリヤはこの言葉を信じ、受け入れました。これから始まる御子の誕生という出来事は、神ご自身が創造される新しい歴史のまさに始まりでした。マリアが何かを始めるできごとではなく、マリアを用いて神が始められる「神の国」の恵みのストーリ、全人類に対する救済の歴史の始まりでした。ここでは、「神にとって不可能ことは何一つない」と、語られた神のことばを信じたマリアの信仰が、神の恵みの通路となったのです。

・「桑の木に海に移れと言えばその通りになる」(ルカ17:6)、「山が海に移れといえばその通りになる」(マルコ11:23)。これは、私たちの信仰が神を動かすのではなく、神が語られたことばはかならず成就することを指しています。「主が光あれと仰せられた、すると光があった」(創世記13)これが神の御業の原点です。言葉によって、無から有を呼び出すことができるのは神お一人です。大いなるみわざを、言葉をもって始められる創造主なる神を信じる、それが私たちの信仰です。

弟を病で失ひ悲嘆にくれるマルタとマリアの姉妹に対して、「私を信じる者はたとえ死んでも生きる」と約束されました。 そのうえでイエス様は、「信じるならば神の栄光を見る」(ヨハネ1140)と、信仰の本質を教えてくださいました。
マルタとマリアに約束されたイエス様のことばをもう一度、聞き直したいものです。あなたの神は小さすぎませんか。あなたの信仰はキリストに焦点があっているでしょうか。どんなに大きな問題よりも、あなたにとって神はさらに大きなお方でしょうか。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル122


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