2023年1月1日 詩篇27:1-6
明けましておめでとうございます。 2023年の新しい年を迎えました。この新しい一年が神様の祝福の中に導かれる日々でありますように、お祈り申し上げます。
年末にコロナウィルスの検査を受けたら陽性判定となり、明日まで自宅待機となりましたので、元旦礼拝はZOOMで牧師室からメッセージをお届けさせていただきます。詩篇150篇中、73篇はダビデの歌とされており、27篇もその一つです。4節の「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている」を中心にメッセージをお届けします。
1.
一つのことを願う
大みそかから正月3か日にかけて京都市内の神社仏閣は初詣の人でにぎわいます。無病息災、家内安全、受験合格、金運・良縁に恵まれますようにと多くの願いごとをします。みなさんはどんな願いをされるでしょうか。イエス様は「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と約束してくださいましたから、遠慮せず願い求めましょう。クリスチャンは神様の子供ですから、父なる神様は、どんなことをどれほど多く願っても、叱ったり拒んだり無視したりせず受け入れてくださいます。受け入れてくださったうえで、「みこころのままに、みこころの時に、みこころ.にかなった方法で、神の最善を成し遂げてくださることでしょう。ですから、祈ったことは必ず聞かれるという信頼に立って、待ち望みましょう。祈りの秘訣はここにあります。
さてダビデは「一つのこと」を願っています。それは「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと」です。ダビデの時代には壮大なエルサレム神殿はまだ建築されていません。息子のソロモン王に委ねられました。かわりに神が臨在される幕屋(5)と呼ばれる特別なテントが「主の家」と呼ばれていました。「会見の幕屋」(出エジ33:7)とも呼ばれ、神が人と出会ってくださる場所であり、神を礼拝し、神と語り合い、神への賛美と祈りと犠牲の供え物がささげられる礼拝の場所でした。もちろんダビデは幕屋の中で寝泊まりすることを願っているわけではなく、いのちの日の限り、神と近く、神と共に、神と親しく交わる礼拝者として歩み続けたいと願っているのです。詩篇23編でも「私はいつまでも主の家に住まいましょう」(6)と告白しています。
ダビデ王だけではなく多くの神の民の共通の願いでもありました。詩篇84:10-11では「まことにあなたの大庭に居る一日は千日にもまさります。私は悪の天幕に住むよりは、むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」と、告白されています。どのような状況にあっても、「主の家」に住み、神を崇め、神に賛美と祈りをささげ続ける生涯を歩みたい、いいえ歩ませてくださいとの願いが込められています。主の家は現代では「教会」と置き代えてもよいでしょう。
自宅待機中、「戦場の宗教」(石川明人)という本を読みました。その中で終戦4か月前に九州鹿ノ屋基地から特別攻撃隊の一員として出撃した林市造さんが母に宛てて書いた手紙と日記が紹介されていました。市造さんは二人の姉と弟家族の長男としてクリスチャン家庭に生まれましたが、父親は2歳の時に亡くなり、母親が苦労しながら子供を育てました。京都帝国大学に入学した1年後に学徒出陣で海軍に招集され、やがてゼロ式戦闘機による特攻隊に編入されました。
詩篇84篇11節「神は日なり盾なり」と題した日記に「すべては神のみむねであると考えると、わたしの心はのびやかになる。神は母に対しても私に対しても悪くなさるはずがない。私たち一家への幸福はかならず与えられる」と記されています。出撃が決まった日の日記には「母さん私のようなものが特攻隊の一員になれたことを喜んでください。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私達ですからね。でも母さん、やっぱり悲しいですね。悲しい時は泣いてください、私も悲しいから一緒に泣きましょう。そして思う存分泣いたら喜びましょう。私は讃美歌を歌いながら敵艦につっこみます」。そして出撃の前日には「母さん、大概のことは書きましたね。今日は学校のオルガンで友達と讃美歌を歌いました」記されています。150㎏の爆弾を積んだ戦闘機に搭乗し、4月12日の午後、与論島東方にて林市造さんは空母を含む機動部隊に16名の仲間と共に突入し、戦死しました。23歳でした。戦争という時代の嵐に巻き込まれながらも、彼は一人のクリスチャンとして神と共にある生涯を全うしましました。「絶望は罪である」「私は死を眼前に悠々たる態度をとるのではなく、永遠に生きる者の道を辿ろう」とも記しています。
太平洋戦争という大きな時代のうねりの中で、このような生き方をした若いクリスチャンもいたことを知って思わず胸が熱くなりました。市造さんもいのちの日の限り、主の家に住むことを願ったお一人でした。
2. ダビデの逃れの家、隠れ家
話をダビデに戻しましょう。なぜ、ダビデはそれほどまで「主の家」に住むことを願ったのでしょう。
5節で、神の家は「隠れ家」であり、「それは私が悩みに日に、私を隠れ場に隠し、私をかくまい、安全と安心という揺るがない岩の上に引きあげてくださったから」と、ダビデは振り返っています。ダビデの生涯は波乱万丈、さまざまな困難と試練と苦難の連続でした。王に即位する前には先代のサウロ王にねたまれ命を狙われる日々でした。王になってからはぺリシテ人との戦いに明け暮れ、部下の妻を娶ったことで預言者ナタンから激しく罰せられました。晩年には息子たちの裏切りによって都落ちしなければなりませんでした。それでも神はダビデを顧み、ダビデを見捨てることも見放すこともありませんでした。幾多の悩みの日に、神は神の家で祈るダビデを隠れ場にかくまい、守り、励まし、支え続けてくださいました。
この世の人々は宗教にこだわる必要はない、何を信じても結局、同じであり、「信心」つまり信じる心が大切といいます。しかし、私たちは「信心」ではなく「信仰」を大切にします。信心は自分の心のありかたに重きを置きます。ところが、信仰は仰ぐべきお方を大切にします。「いわしの頭も信心から」といいますが、さすがに「いわしの頭を仰ぐ人」はおられませんね。何を信じるか以上に、誰を信頼するかが問われます。私たちは生きておられる神を信じ、仰ぎ、信頼するのです。
教会をあらわす英語のCHURCHはギリシャ語のキュリコン(主の家)に由来しています。教会に集い、結び合わされた私たちも、主の家に住まうことを願う一人一人であり、父なる神と御子イエスキリストを御霊によって「主」と仰ぐ者たちです。
曲がったこの世の道を信仰をもってまっすぐに歩こうと思えばぶつかるのは必定。さらに、この世の人と同様、神の子供とされた私たちも幾多の困難に直面し、揺れうごき、戸惑い、「なぜ、どうして、この私が」と思わず嘆き、涙する時があることでしょう。そんなときはともに悲しみ、共に嘆きましょう。涙してくれる友が本当の信仰の友ですから。 そして共に、神を仰ぎましょう。
なによりも、自分の弱さを覚える時、もろさにおびえ震える時、私の魂そのものに、信仰に立ってしっかり語り掛けましょう・。 いいえ、語りかけて下さる神の声に委ねましょう。
「待ち望め、主を・雄々しくあれ、心を強くせよ。待ち望め。主よ」(14節)と。
あなたが祈り求めるただ一つのことをしっかり見つめる1年でありますように。