【福音宣教】神の国はあなたがたのただなかにある

2023/01/29 礼拝説教 ルカ17:20-21 

若い頃、日韓学生交流で韓国を旅行し貴重な体験をしました。別れの時に韓国の学生が手を振るのでなく、指を天に向けて挨拶してくれました。「天国でまた会いましょう」の意味を込めて・・。一般的に私たちはこの地上と遠く離れた上の方に、すなわち天に永遠の国があると感覚的に受けとめています。上を見あげ、空を見上げ、星空を見上げ、天に永遠の神の国があると感じます。もしそうであれば、かつて人類最初のソ連の宇宙飛行士ガガーリンが「宇宙のどこにも神はいなかった」といったそうですが、そういう結論に達してしまいます。このように、世界を二つに分けて考えることを二元論といいます。極楽と地獄を説く仏教だけでなくギリシャ哲学においても、この地上の世界と神々が住む天上の世界のように二元論的に考えています。だとすると、イエス様の20-21節のことばはどのような意味を持つのでしょうか。「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

1. 神の国

「あなた方の中に神の国がある」とはどういう意味でしょうか。当時、「神の国」という言葉は、「神が正義と公平をもって支配される状態」を意味していました。国という原語は、「神の全きご支配」を意味します。ところがパリサイ人を始めとする一般ユダヤ人にとって、神の国とは、ローマ帝国の異邦人支配を打ち破り、圧政・重税・暴力・皇帝礼拝から解放し、神が治めるユダヤ民族国家が歴史的に樹立されることを意味しました。その主導的役割をメシアと呼ばれる解放者が担うと考えられていました。具体的に言えば、ローマ帝国の支配に対抗する軍事的反乱、民衆による革命によってユダヤ国家を樹立するという運動でもあったのです。事実、幾度となく偽メシアが現れ、民を扇動し、ロ-マ政府に反旗をひるがえしました。しかし、その度ごとに、残忍で強力なローマ軍団によって粛清・鎮圧されました。軍事的な人間の力によって地上に神の王国を樹立するという考えに対して、神の国は「ここにある、あそこにある」と目に見える形で実現するものではないと、イエス様は否定されました。

次に「あなたがた」とは、弟子たちではなく、文脈的にパリサイ人たち、一般民衆を指しています(マタイ22-24、ルカ111114)。イエス様を信じる者たちの心の中というように狭く限定しているわけではありません。もし信者の心の中に神の国があるのだと精神論的に縮小してしまうと、御詠歌のようになってしまいます。「極楽地獄は西でも東でもなく、ミナミにある(みな身にある)」と。つまり、こころの持ち方ひとつで神の国にも地獄にもなるというような教えを聖書は決して語っていません。

2. 3段階で神の国は完成する

神の国は3つの段階を経て歴史的に実現し完成されていくと結論づけることができます。

第一段階は、メシヤであるイエスが来られたことによって、「神の国」すなわち「神の公平と正義と愛のご支配」が、すでに地上において始まったということです。イエス様の宣教の第一声は、マルコ 1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ115)でした。「時が満ちた」「近づいた」と訳された動詞は共に完了形ですから、「もうすでに到来している」とも訳せます。だからまだ時がある、先のことだとのんびり構えるのではなく、神抜きの人生を方向転換し、神の国がイエスとともに来たという喜びの知らせ(福音)を受け入れ、信じなさいと語り掛けたのでした。さらに御霊の力に満ち満ちているイエス様は、権威ある言葉によって悪霊を追い出し、病を癒し、奇跡を行い、神のご支配がすでに始まっていることを証明されました。まさに神の国が現在に突入したのです。「ほら、まさに私がここに立っている、私がいるところが神の国そのものであり、神の国の新しい始まりである」と民衆のただなかでご自分を指して呼びかけておられるのです。「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(ルカ11:20)最終的に、イエス様は十字架の死と復活によって、古きこの闇の世の支配者であるサタンの力、人類の最後の敵と呼ばれる「死の力」を打ち砕かれました。カルバリの丘に十字架が立てられ、メシヤでありキリストであるイエスの死と復活によって、イエス様とともに始まった神の国はクライマックスに達したのです。

ある学者は第二次大戦のノルマンディー上陸作成に喩えて、この日の戦いで連合軍が勝利したことによってドイツ軍は完全な敗北を帰し、やがてドイツナチス帝国の終焉・完全降伏の日を確実に迎えることとなりました。連合軍の完全勝利の日は、この日の戦いで既に決まっていたと表現しました。十字架はサタンに対する勝利宣言の日でした。k十字架こそ私たちの力です。あらためて十字架の恵みと復活の希望を私たちは大いに感謝し喜び、記念したいものです。

*第二段階はペンテコステから始まりました。神の御子イエス様に満ち満ちていた御霊が、ペン テコステの日にイエスを救い主と信じるすべての人に与えられました。

この祝福は「御霊の内住」とも「よみがえられたキリストの内住」とも「聖霊の宮」とも表現されます。このことによって、まさにキリストを信じる者の心に新しいいのちと人生の新たな目標が与えられ、御霊の実を結ぶように導かれたのです。キリストが御霊とともに臨在されるところ、そこが確かに新しい神の国と言えます。この意味でクリスチャンの御霊を宿した心は、神の国といえます。この神の国は信仰の共同体である教会の中にゆっくり拡大してゆき、さまざまな愛の奉仕と実を結び続けます。この意味ならば教会が神の国の姿を反映しているともいえます。

「愛は形容詞ではなく動詞である」と言われます。愛は教会の中だけではなく、教会を超えて拡大します。世界中で活動している様々なNPO関連の諸団体があります。福祉や教育や医療や難民支援活動など、すべての始まりは小さく、一人のクリスチャンの祈りと重荷の中から始まったものも少なくありません。「天国は小さなからし種のようなものである」とイエス様が言われたように、やがて大きな働きへと成長しました。祈りと献金を通して諸団体の働きに参与することも、今ここで「神の国に共に生きる」ことに他なりません。神がこの世界を創造された時、アダムとエバをエデンの園に置き、「そこを耕やさせ、守らせ」(創215)ました。神が創造されたすべてのものを、御心にかなって公平と正義と愛をもってうるわしく治めるように委ねてくださいました。しかし、アダムとエバの堕落により、人類はこぞって神への不信仰・不従順に陥り、人間の罪と欲から生じる争いと流血の歴史を繰り広げ、その結果、人間の手で御心にかなって治められるべき自然界は破壊と苦悩の中におかれてしまいました(ロマ819)。だからこそ、神の子どもたちと教会の働きを通して、神との和解、人と人との和解、人と自然との和解が求められ、期待されています(2コリ518)。環境汚染防止のため、ごみの分別をすること、ビニール袋削減のために買い物袋を持参すること、こうした小さなことがそのままこの地上の世界を神の国に一歩でもつなげ、自然界のうめきをやわらげ、神との和解へ導きます。日常生活の中におけるこのような小さな奉仕は神の国に直結しています。それこそ神の国の子供たちに託されたミッションといえます。

第三段階は、イエス様が再びこの地上に王の王として来られる再臨の時です。未来に関することですから、いつの日かそれはわかりません。聖書が記していることがらは完成する神の国のほんの一部分にすぎません。それでも終末について、再臨について、神の国について学ぶことによって、希望は大きく膨らみます。人生を肯定的に未来志向的にとらえることができます。死が終わりでないように、世界も破滅で終わりではないことを私たちは知っているからです。いよいよ神の国が完成する日が近づいていることを知っているからです。みなさん、人生の最後はお墓ですか、それとも神の御国ですか? この答えを私たちは信じ、希望をもって待ち望んでいます。

わたしたちの国籍はすでに天に登録されているからです(ピリピ320)。 もう一度、尋ねます。あなたの人生の最後はお墓ですか、それとも神の御国でしょうか?


  目次に戻る