【福音宣教】 おさなごのようにならなければ

2023年2月26日 ルカ18:15-17 

イエス様に祝してもらおうと親たちがイエス様のもとに子供たちを連れてきました。ユダヤの国では一歳になる子供のために長老たちが手を置いて祝福する慣習がありました。「子供」たちと訳されたギリシャ語は乳飲み子から4-5歳までの子どもまで幅広く使われています。

 1. イエス様は子供たちを拒みませんでした。

弟子たちが子どもたちを退けようとした(15)とき、イエス様はむしろ憤って(16)、弟子たちをたしなめ、「邪魔をしてはいけない、私のもとに来させなさい」(マタイ1914)と命じました。さらにイエス様は子供たちの頭に手を置いて祈ってくださいました(マタイ1915)。この聖句は教会学校や児童伝道の根拠となっています。子供たちがイエス様のもとに来ることができるように、あらゆる障壁を取り除く配慮が、教会に求められます。今、私たちが子どもたちへの伝道にかつてのように十分に力を発揮できないことを大きな痛みとして覚えたいと思います。 

 2. 子供のように受け入れる者

さて、イエス様は「幼な子は無条件で天国に入れる」という教えをここで述べているわけではありません。むしろ幼な子の親たちそして群衆に向かって、あなたがたも「幼な子のようにならなければ神の国に入ることはできない」と語りかけているのです。その証拠に、マタイ、マルコ、ルカすべての福音書で、この出来事の後に、「律法を厳格に守っていながらイエス様のもとを立ち去った金持ちの青年役員」の出来事が記されています。彼は財産、名声、地位、仕事、家と言ったしがらみに縛られ、幼な子の心のように、イエス様に深く信頼することができなかったのです。

あらためて、「幼な子のように」とはどういう心の在り方や生き方を指すのでしょうか。幼な子は「純粋無垢で汚れのない状態」というイメージを指しているのでしょうか。教会員には保母の経験者もおられますから、幼稚園児ぐらいになれば、意地悪をしたり、悪口を言ったり、仲間外れにしたり、かなり悪さをしはじめますから、「汚れなき、きよらかさ」とまでは強く言い切れませんね。
しかしながら、幼な子たちの最大の特徴を挙げるとすれば、「親の存在がなければ生きていけない無力さ」にあるのではないでしょうか。赤子はお母さんがお乳を与えなければ飢え死にしてしまいます。産着を着せなければ凍え死んでしまうことでしょう。医者につれて行かなければ、風邪でいのちさえ落としかねません。幼な子は保護者である親が傍にいてくれなければ何もできません。たとえ1万円札を手に握っていてもご飯を食べることさえきっとできないことでしょう。

それほど、幼な子は保護者である親への依存度が高く、絶対的と言えるほどの信頼を寄せて、身を任せているといえます。

子供の持つ親への「基本的な信頼性」というのは、大人の私たちにはまねができませんね。子どもは大人の縮小版であり、子どもの世界は大人の世界の未完成な状態と考えられがちですが、ひょっとすると子供の世界の方が大切なものが見えているかもしれません。大人の私たちの方が、神によって創られた本来の人間としての大切なものを見失ってしまっているかもしれません。

父親が時々、「高い、高い」とか言って我が子を高く掲げて、子どもも大喜びしている姿を見かけます。あれは喜んでいるのではなく、怖くて顔がひきつっているのだという説もありますが・・、なんどもせがまれるところをみれば楽しんでいるようです。ところが「落とされるかもしれない」という疑いや不安などはみじんもありません。このように幼な子たちは、自分の親にも周囲の人々にも「信頼する」広いこころを持っています。イエス様は、幼な子にみられるような、「信頼の心」、「より頼む心」で、「私を信じなさい、受け入れなさい。なぜなら、私こそ神が遣わされたまことの救い主であり、あなたがたの保護者、永遠の神だから」(イザヤ4110)と、不信仰で疑い深い大人たちを招いておられるのです。

山上の垂訓と呼ばれるイエス様の説教の8つの祝福の第一番目は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のもの」(マタイ53)でした。心の貧しさとは、心がからっぽの状態のこと、つまり神以外に頼るものがなにもない状態、いいかえれば「神への徹底的な信頼の心」を意味しています。これこそがまさに「幼な子のような」在り方なのです。それに対して、神を信じなくても自分の知識や経験や力で十分やっていける、いざとなればお金がものをいう、人はまず疑ってかかれ! とばかり、いつしか私たちの心はこの世的な思いでぎっしりと詰まってしまっているようです。あるお寺の門前の掲示板に「おさなごの大人になりて、ほとけを忘れる心の悲しさよ」と書かれていましたが、はっとさせられます。神抜きの大人の世界の虚しさといえます。

ウクライナ戦争でミサイルや爆弾で家が破壊され、両親が殺される悲惨な経験をしている子供たちの心が、どれほど深く傷ついていることでしょう。どれほどするどく「信頼する」心をえぐり取られ、奪われていることでしょう。大人になっても深くえぐられた心は、容易には回復しないのではと危惧されます。自分に対しても周囲に対しても、世界に対しても「疑いと不信感」を拭い去ることは難しく、悲観的な生きにくさを抱え込んでしまうのではと案じられます。それゆえ、世界各国から贈られる様々な支援を通して、決してひとりじゃない、周囲には信頼に足る温かい人々の存在があることを知ってほしいと願います。私たちも祈りつつ、募金をささげましょう。そして傷ついた子どもたちへの回復に有効に用いられるように祈りましょう。

3. イエス様がおられるところが「神の国」

さて、イエス様は「幼な子のような」信頼の心で、私を信じなければ神の国に入ることができないと群衆に向かって強調されました。今まで学んできたように、神の国つまり「神の公正と義と愛のご支配」は、終末の再臨において完全な形で完成しますが、神が遣わされたキリストがおられるところ、イエス様がおられるところが、すでに神の国そのものとなっています。イエス様のもとに来て、イエス様の話を直接聞き、イエス様を見、イエス様に手を置いていただき祝福していただくならば、ユダヤ人にとってもうすでに神の国に生きていることにほかなりません。しかしそのことに気付き、理解し、信じ、信頼するものは一握りの弟子たちでしかありませんでした。

世の救い主として遣わされたイエス様は、十字架で死なれ、よみがえられ、天に帰られました。このお方は、すでに神の御座に王として着座され、あらゆる権威をお受けになりました。地上に生きる神の民を支え強めるために聖霊をくだし、イエスキリストを信じる者を「御霊を宿す」者としてくださり、苦境の中にあっても、神の霊と力と愛に満たされ、神に信頼して生きる者としてくださいました。ですから、クリスチャンが存在するところに、キリストも御霊とともに存在し、そこもまた神の国と呼ばれるのです。それゆえ、世の人々の目に、クリスチャンの集う共同体である教会が、「神の国」として映ることが最善の証しとなり、私たちの心からの願いでもあります。

イエス様は「私があなたがたを愛したように、そのようにあなた方も互いに愛し合いなさい。もしあなた方の間に愛があるなら、それによってあなた方が私の弟子であることをすべての人が認めるのです。」(ヨハネ1334-35)と言われました。

クリスチャン自身が、教会は神の国ですと言っても、我田引水に過ぎません。世の人々の目にそのように映ることが大切なのです。そうすれば、世の人々はおのずと喜んで神の国に入りたいと願い、信仰の人生を選ぶことでしょう。疑いと計算と不信に満ち、自分の力だけで十分生きていけると誤解している大人のこころを捨て、保護者である父なる神と御子イエスへの信頼の心をもって生きる者たちの人生は、すでに神の国に生きる姿そのものといえます。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ4110


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