2023年3月12日 ルカ18:22-30
・先週私たちは、「永遠の命を得るには何をしたらいいでしょうか」と真剣に問いかけた若き役員とイエス様の会話を学びました。「戒めは全て守ってきました」という彼に対してイエス様は、「あなたに一つかけたものがある」と指摘しました。彼は自分の知らない戒律がきっとまだ一つあるのだと思ったかもしれません。イエス様は「全ての財産を捨て貧しい人々に施し、私に従いなさい」とチャレンジされました。もちろん、全部を捨て、貧しい人に与えれば永遠の命を得ることができるとは聖書はどこにも書いていません。戒律を守ろうとする人は、文字通り解釈する傾向があります。たとえば、「7度を70倍するまで許しなさい」とイエス様が命じたら「では、491回からはどうするんですか?許さなくても OK ですね」という考え方になりかねません。「人を見て法を説け」とよく言われますが、イエス様は彼が若くして裕福であり、地位も名誉も名声もある人物だけに、自分の持っている現実的な持ち物-富-に心をとらわれていること、そこから離れられないいやそれを手放そうなどと思ったことなど一度もない、ということを見抜いて、そこに光を当て問いかけておられるのです。
・財産の全てを捧げようと1/2を捧げようと1/10を捧げようと、神の国と永遠の命を得ることとは関係がありません。お金があろうとなかろうと、イエス様を救い主と信じ、信頼して従うことなくしては、永遠の命は得られないからです。全ては信仰にかかっているからです。 「あなたがたは恵みにより信仰によって救われたのです」(エペソ2:8)
・この直後エリコの街で ザアカイという取税所の頭、ローマ政府のために税金を徴収する役所の長官が救われました。その時、彼は「財産の1/2を貧しい人に施し、脅し取ったものは4倍にして返します」(ルカ19:8)と悔い改め告白しました。イエス様はその時「今日救いがこの家に来た」と全家族を祝福されたことからも明らかです。
・神様以外のものを心の拠り所にしている時、それを「偶像」と言います。しばしば偶像は、私たちの心を束縛します。しがみつかせます。神を信じる事よりも、もっと強烈な見せかけの安心感を与えるからです。大豊作なので農夫が、倉を壊し新しい蔵を建てて全部蓄えよう、「安心して食べて飲んで楽しめ」(ルカ12:18)といった心境と同じです。その時、神は「愚か者、お前の魂は今夜取り去られる、そうしたらいったい誰のものになるのか」と鋭く問いかけた、たとえ話をイエス様はされました。
2 イエス様は「神の国に入るよりもらくだが針の穴を通る方がやさしい」(25)と言われました。ラクダが針の穴を通るはずがありません。オスのラクダであれば、少なくとも背丈 3 m、 横1.5 m 、体重平均600 kg のラクダが通ることができる大きな穴 が必要です。これは「100%不可能」を意味することわざです。人間の捕らわれや執着心や、身につけた価値観は、それほど強いものだというイエス様の教えの表れです。このことを聞いた人々は、あれほど立派に戒律を守っている人物が、もし神の国に入れないのであれば、「一体誰が救われる事ができるでしょうか」(26)と、イエス様に質問しました。彼らはイエス様の真意を理解することができませんでした。
一方、弟子達もイエス様の真意を誤解していました。私たちは金持ちでもないし、地位や名声も何もない、無学なガリラヤの漁師にすぎませんが、イエス様に従ってきました。イエス様の招きに応じて、何もかも捨てて(ルカ5:11)、網を捨て、父を捨て、家を捨てて、従ってきました(マタイ4:20,22)。「ですから、私たちは何がいただけるでしょうか」(マタイ19:27)とイエス様におねだりしている次第です。物わかりの悪い弟子たちにイエス様も苦労されたことでしょう。
3. イエス様はそれでも丁寧に、弟子たちに応えて、従う者のの幸いを語ってくださいました。「この世にあって、その幾倍かを受けない者はなく、後の世では永遠の命を受けない者はありません」(30)と。イエス様はただ死後の世界の幸いだけを約束しておられません。この地上の生活においても、神から豊かな贈り物があることを教えてくださいました。神の贈り物は永遠の命だけではありません。この地上の生活においても豊かな祝福を与えて下さっています。
それはものにとらわれない自由で平安な心(ピリピ4:11-12)、思い煩いから解放される祈りの世界(4:6-7)。肉親以上に新しい親密な信仰の家族の交わり(エペ2:19マタイ12:48)、罪に悩み苦しむ時には豊かな十字架の赦し、孤独の中に置かれる時には「主が共におられる」慰め、 どんな試練の中にあっても希望を持って歩める内なる御霊の力、それを一言で言えば「人にはできないが神にはできないことはない」という救いの賜物の数々と言えます。
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:6-7)
「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ12-13)
こうしたことに普段はなかなか気が付かないのが実際ではないでしょうか。すでに多くの豊かなものが与えられているにもかかわらず、その神の恵みを数え上げることを、私たちは忘れてしまっています。
ある時、会社の社員が「小出さん、退職してカウンセラーや教会の仕事を辞めたら、後は好きなことをしてゆっくりできますね」と言われました。その時、私は「いやー、カウンセリングも牧師も私が一番好きなことです。それを辞めたら何をしたらいいのか困ってしまいます」と答えました。思わず口から出た言葉でしたが、考えれば私の本当の気持ちだとつくづく思いました。振かえれば、卒業の時、推薦された広島の女子校の英語教員についていたならば、あるいは、ホテルマンであった父の関係でサンフランシスコにオープンすることになっていたホテルに就職していたら、今ほど幸せだっただろうか、この歳になるまで楽しく働かせていただくことができただろうか、これほどたくさんの人たちとの麗しい人間関係の中で生きることができただろうか・・。答えは今が「幸せ」。主は私を良いところへ導かれた、これが私のベストの道だと感謝が満ちてきます。
「はかり縄は私の好む所に落ちた。まことにわたしへのすばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16:6)
神はどれほど心が頑なな人でさえ変えてくださり、救いへ導いてくださるお方です。人にはできないが神にできないことはありません。必要なのはそうしてくださるという私たちの側の、強い確信と揺るがない信仰と現実に打ちひしがれない確かな御霊による希望を持ち続けることです。神にはなにも問題はありません。私たちが信仰に立つことです。
火曜日の聖書学校で「御霊による奇跡」を学んだ時、一人の方が「この私が救われたこと、これに勝る奇跡はありません」と言われました。参加者みんながうなずきました。そうです、荒野に川が流れるよりも、岩から泉が湧き出るよりも、この私が「神の子とされた」「尊い御救いを受けた」。これに勝る喜びはありません。人にはできないことを神は成し遂げてくださいました。自分が計画していたこと、考えていたことを以上の良きことを成し遂げてくださいました。これからもそうしてくださることでしょう。
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:9)