【福音宣教】 十字架がわかるとき、あなたはかわる

2023年3月19日 ルカ18:31-34 

1. 十字架の真理を語るイエス様

いよいよイエス様と弟子たちの一行は、都エルサレムに向かいます。これがイエス様にとっても弟子たちにとっても最後のエルサレム訪問となります。エルサレムに入城して一週間も経たない間に、イエス様はカルバリの丘にたてられた荒削りの十字架にかけられ処刑されました。弟子たちには衝撃的な大事件でした。しかしイエス様はすでに父なる神のみこころを理解し、自ら進んで、毅然とした態度でエルサレムへ向かい、十字架に至る道を歩まれました。

この時、イエス様は弟子たちだけをみもとに呼びよせ、もっとも重要な真理を懇ろに語り聞かせました。「救い主メシヤについて預言者たちが書きしるした預言がすべて実現されるべき時がきました。人の子は異邦人に引き渡され、彼らにあざけられ、辱めを受け、ツバキをかけられます。彼らはむちで打ってから殺します。しかし人の子は三日目によみがえります」(31-32)と。まさにこれからイエス様の身に起こる、十字架の死と復活の予告でした。ルカは「異邦人に引き渡され」と、キリストの死は、単なるユダヤ人の問題だけでなく、全世界の人々に関わるできごとであると強調しています。

遠いユダヤの国の2000年前の昔話ではなく、2000年代の日本社会で生きるすべての日本人の永遠の運命といのちに深くかかわる出来事なのです。

2. 何一つわからなかった弟子たち

ところが弟子たちにはイエス様が何を言っているのかまったくわかりませんでした。幼稚園児がいきなり英語を聞いたり、私たちがアインシュタインの相対性理論について講義を受けるようなものです。みなさんが、初めて教会に来た時、十字架について、復活について語られてもおそらく面食らったことでしょう。「この人たちは何を語っているのだろう。本気でそんなあり得ない話を信じてるんだろうか」と。実はルカの福音書の中だけでも、イエス様はもうすでに6回も弟子たちに「十字架の死と復活」について語っています(535920-22944-4512501332-331725)。ペテロが「あなたこそ神のキリストです」(ルカ920)と、イエス様のまことの御人格を告白できたときでも、イエス様がなそうとしておられる十字架と復活の御業についてはまだ理解できませんでした(21-22)。そんな弟子たちでしたが、徐々に理解を深めて行きました。

晩年のヨハネは「ここに愛がある」(1ヨハネ49-11)と語ることができました。ペテロも「あなた方は死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにしてあなたがたの信仰と希望は神にかかっています」(121)と語ることができました。あなたもきっとわかるようになります。そしてイエス様の十字架と復活の良き知らせがわかると、あなたの人生が変わります。わかればかわるのです。

まず、イエス様、このおかたがまことの救い主であることを信じ、信頼して従いましょう。やがて十字架の恵みがわかってきます。罪の赦しの大きさがわかり、神の愛にとらえられることでしょう。そしてそのとき、一転して復活の勝利と希望に心が躍る経験を味わうことでしょう。

3. 真理の御霊によって目が開かれる

十字架の復活の真理がわかるまでにどうして多くの時間がかかるのでしょうか。実はキリストの十字架と復活の真理は、この世の不信仰な人々目には神によって「隠されて」(34)いるからです。神によって「隠されている」から、神によって「明らかにされる」までは理解できないのです。神様が意地悪をしているわけでは決してありません。

私たちは通常、物事を理解するために人間の常識や理性や知性を用います。ところが神が明らかに示される真理は、理性や知性や常識だけでは理解しきれないからです。理解する方法、あるいは手段が異なります。うどんやラーメンをスプーンで食べる人はいません。器用な人でもうまくいきません。ミルクをフォークで飲もうとする人はきっといらいらすることでしょう。神の真理を理解するためには、ふさわしい方法と手段が必要です。「神が隠された」ものは「神によって明らかに」されます。人間の努力や知識や常識や理性では明らかにできません。すばらしい宝石が詰まった宝の箱を開けるための「鍵」が違うのです。鍵が違えば箱は開きません。

パウロは「すべては御霊の働き」によると告げています。

「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」(1コリ2:10-11)

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリ2:14)

これらのことはすでにイエス様が弟子たちに明言されています。神が遣わしてくださる御霊は「真理の御霊」と呼ばれます(ヨハネ1417)。「聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、またわたしがあなたがたの話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(1426)と。

御霊によってわからせていただくためには、「祈り」が求められます。3つの祈りをささげましょう。「主よ、教えてください」という謙虚なこころが祈りには伴います。「主よ、あなたが教えてくださるまで、あなたを離れません」という、静かな求道心、渇けるこころが祈りには求められます。「主よ、あなたが良しとする時に、悟らせてください」という、委ねて待ち望むこころが祈りには求められます。御霊は風のようにどこから吹いてくるのかわかりませんので、思わぬことから、あるいは意外な機会から、あるいはラジオやテレビで聞いたなにげない一言から「はっ」と教えられることがあります。私たちの生活を変えるのは多くの場合、この「はっと体験」だと言われています。腑におちた、胸に下りた、魂に響いた、心の琴線に触れたなど多くの表現がありますが、こうした体験が、今までの生き方に終止符を打ったり、方向転換をさせたり、新しい旅立を与えたりするものです。このように人生が動かされる体験こそ、御霊によってみ言葉が開かれるとき、真理が光をはなったとき、「わかった」と喜びが満ちるときといえます。

理解できないことが理解できるようになる、わからなかったことがわかるようになる、見えなかったものが見えるようになるのは、真理の御霊と呼ばれる聖霊のお働きによります。聖霊のお働きを通して、私たちの目が開かれるとき、いったい何がおきるのでしょう。自由と喜びと愛が満ち、キリストと共に生きるゆるぎない基盤を心の内に持つことができます。

真理は「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)「不正を喜ばずに真理を喜びます」(1コリン13:6)。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペ4:15)「しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、」(エペ6:14)

次のパウロの言葉はいつの時代にも真実です。

「十字架の言葉は滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」(1コリント1:18)

  こころの目が開かれ、十字架が見えるように、心の中に十字架が立てられますように。


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