2023年3月26日 ルカ18:35-43
いよいよイエス様と弟子たちの一行は、都エルサレムへの入り口ともいえるエリコの街へ入られます。この街でイエス様は2人の人物を救いへと導かれました。一人は盲目から解放されたバルテマイ、もう一人は富の奴隷から解放されたザアカイです。
1. 盲人が道端に坐って物乞いをしていた
マルコでは彼の名はバルテマイと紹介されています。ナザレのイエスが町に入られたとのざわめきを耳にしたバルテマイは大声をあげて「ダビデの子イエス様、私を哀れんでください」(38)と助けを求めました。ダビデの子という呼び名はメシアを意味することばでした。盲人の叫びを耳にしたイエス様は彼を呼び寄せ、「何をしてほしいのか」(41)と尋ねました。「何と何をしてほしいのか」ではありません。「何をしてほしいのか」と呼びかけてくださっています。もちろんイエス様はここで御用聞きをしているのではありません。情報集めをしているのではありません。彼の叫びつまり祈りに応えようとしてくださっているのです。ですから、祈りは漠然とした祈りであってはなりません。何をしてほしいのかと問われて、あれもこれもと欲張りなことを言っていてはなりません。しっかり焦点があっていなければなりません。それは「イエス様以外に求めることができないことを求める」ことを意味します。イエス様にしかお願いできないことを求めることを意味します。
人間の手で実現できることならばそれが実現できるような努力や幅広い人脈づくりを日頃から積み重ねていかなければなりません。自分の努力で手に入れることができるならば、たとえば大学に合格したければ、日頃から隠れた努力をコツコツと積み重ねていかなければなりません。聖書の中には「棚からぼたもち」のような都合の良い祈りはどこにも記されていないからです。先週、私たちはすでに「人にはできないが神にはすべてのことができる」(27)という真理を学びました。神にしかできないことの扉を「祈り」は開くことができます。だからイエス様は問いかけてくださるのです。「私に何をしてほしいのか」と。あなたはイエス様に何を願い、何を求めますか。
2. 見えるようになることです
「もう一度見えるようになることです」と彼は即答しました。ギリシャ語は「再び見る」という意味ですから、彼は中途失明者であったと思われます。イエス様は「もう一度見えるようになれ」(42)と彼の願いをそのまま命令形で宣言されると、目が見えるようになり、癒されました。さらにイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」(現在完了形)とも言われました。単なる過去形ではなく、その結果がこれからも続くことを意味しています。
では、どこに彼の信仰があったのでしょうか。
バルテマイは見えない目でイエス様を探し求めました。イエス様と出会おうと必死で叫びました。「うるさい黙れ」とばかり何度も妨害されました。しかし、彼は求め続けました。このお方がメシアであれば「盲人の目を開くことがおできになるお方だ」と信じ続けました。それは旧約聖書で約束されていたメシアの御業の一つだったからです。「囚われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために」(ルカ4:18 イザヤ61:1)と、イエス様はユダヤ会堂での最初の説教で宣言されました。彼はメシアのみわざをイエス様の中に信じたのでした。この信仰が尊ばれ、神の力と愛が注がれたのでした。信仰による祈りは、メシアのみわざを自分の身に引き寄せることができます。聖書の約束がわが身において実現していくのです。しかもそれは一度限りの出来事ではなく、生涯に及びます。
ある牧師が語っています。私たちの信仰は、神の恵みを受けとめる受け皿のようなものですと。無限の神の力も恵みも、受けとめる器が無ければ無に帰してしまいます。受けとめる器があるか、ないかが肝心です。器の大きさの問題以前に、器があるかないか、用意できているか用意できていないかが問われます。信仰そのものが神様からの贈り物であることをあらためて考えさせられます。
3. 神を崇めながら従った(43)
彼は癒しを得た後、神を崇め、神を賛美し、イエス様とともにエルサレムへの旅に従ったのでした。これは私にとって大発見でした。この人物についてその後、何も語られていませんので、どこまでついていったのかわかりません。しかし、もしバルテマイが都エルサレムまで同行したとしたら、その可能性は決して低くはありません。イエス様によって目が開かれ見えるようになったバルテマイが見たものは「イエス様の十字架と復活であった」と想像を膨らますことは自然です。「見えるようになりたい」という彼の願いはなにより、健常者のように、世界が見えるようになることでした。しかしそれだけではありません。彼は約束されていたナザレのイエスの真の姿を見ることができたのです。傷つきあざけられ、ののしられ、重い十字架を背負いながらカルバリの丘に向かうイエス様の姿、さらに十字架に釘付けにされながらも「父よ、彼らをおゆるし下さい」と祈られたイエス様のことば、イエス様の遺体が墓に葬られてしまった失望と悲しみに陥っている弟子たちの憔悴しきった無力な姿、しかし、よみがえられて弟子たちの前に姿をお見せになった栄光と勝利に輝くイエス様、それはすべてダビデの子・メシアの真実な姿でした。
エルサレムにはよみがえられたキリストを目撃した500人以上の人々が今も生きている(1コリント15:6)と、パウロが語ったその中に、バルテマイもいた可能性も十分、考えられます。
バルテマイにとって本当の意味で「見る」とは何を見ることだったのでしょう。何が見えるようになることが、本当の幸せと喜びに通じることだったのでしょうか。
3歳で失明、46歳で幹細胞移植手術を受けて目が見えるようになったマイク・メイの奇跡的な出来事を綴った本を読みました。失明の中にあっても前向きに明るくエネルギッシュに生きていた彼は、結婚し2人の子どもに恵まれ、スポーツマンとしても数々のゴールドメダルを獲得し、ビジネスにおいても成功をおさめていました。目が見えるようにり、見たいと願っていたすべてを見ることができました。しかし、同時に彼は混乱と不安といら立ちにも陥ったのでした。見たくないものまで見えるようになってきたからです。なによりも盲人であったときの感覚機能が鈍くなり、金メダルを獲得したスキー競技でさえ何度も転倒し、まともに滑れなくなってしまいました。不思議なことに脳の認識機能が見える物体と一致しなくて、激しい頭痛を引き起こしてしまったというのです。盲人が突然、見えるようになるという事実は私たちが想像している以上に、混乱と不安を生じさせ、時には盲人のままのほうが幸せだったのではと思わせるほどの苦悩をもたらしたというのです。脳の認識機能が「見える」ことに深く関与しているのだそうです。意外と、私たちは見ているようで見えていないのかもしれません。認識していなければ「見えていない」のです。
イエス様によって心の目が開かれたバルテマイは他の弟子たちよりも、ダビデの子イエス様の真の姿を見ることができたのではないでしょうか。神の子イエスの十字架の死と3日後のよみがえりの姿を見ることができることは何と幸いなことでしょう。
十字架のイエス様が「見える」のは、信仰によって心の目が開かれた証拠です。私たちクリスチャンはかつては目が曇って見えなかったイエス様の真の姿、十字架のイエス、よみがえられたイエス様の姿を心の目で見ることができています。かつては何も見えませんでした。教科書で歴史上の4代聖人として学んでいても、何も見えませんでした。十字架を教会の屋根の上に見ることができても、そこに何の意味も見出すことができませんでした。何も見えなかったのです。しかし、信仰の目が開から十字架のイエスを仰ぐことができるようになりました。よみがえられた栄光のキリストを賛美することができるようになりました。私たち一人一人が、心の目が開かれて現代に生きる「バルテマイ」とされています。神の恵み以外のなにものでもありません。
十字架の主を見上げ、よみがえられた栄光の主を見させていただき、この人生を歩ませていただきましょう。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(へブル12:2)