【福音宣教】 10ミナを与えられたしもべたち


20230416  10ミナを与えられたしもべたち ルカ1911-28

エリコの町で、盲人バルテマイの目を開き、癒しのみわざをなさり、ついで取税人ザアカイとその家族を人生の虚しさと家庭の崩壊から救いへ導いたイエス様は、1つのたとえ話を語られました。イエス様がいよいよ都エルサレムに入られるということで、多くの民衆が「メシアによってローマ帝国の支配にかわって神がご支配される地上の神の国がすぐに実現する(11)」と大きな期待をいだいていたからです。このたとえ話には3つのポイントがあります。

1. 身分の高い人が、遠い国へ王位を受けるために旅立つこと(12

神の御子であるイエス様がいよいよ都エルサレムへ入場されますが、それはローマ帝国の支配を打ち破りユダヤ民族を異邦人の手から解放する地上の王となるためではなく、全人類を支配する罪と死の支配を打ち破るために、十字架で死なれ3日後によみがえり、天に昇り、御座に着座され、永遠の神の国の王の王としてすべての権威をお受けになることの予告を示しています(エペソ120-21)。

父なる神のもとへ遠くに旅立ったこの尊きお方は、再び帰って来られます。世界中の教会とクリスチャンはこのお方の帰りを祈りつつ「待って」いるのです。

2. 彼が王位につくことを望まなかった敵対者が、滅ぼされること(1427

イエス様を約束されていたメシヤ、救い主、神の御子と受け入れることができず、頑なに拒み続けるユダヤ教の指導者をはじめとする不従順な人々への究極の審判が厳しいことばで予告されています。いつの時代であっても、キリストを拒み、受け入れない人々のただなかに、教会とクリスチャンは存在していますが、裁くためではなく、彼らが福音を聞いて、救われるために置かれているのです。

3. しもべたちは彼から1ミナづつ手渡されたこと(13)。

王位を受けて主人が帰って来た時に、預けられた1ミナの決算報告を求められました(15-26)。これがこのたとえ話の中心的メッセージとなります。

しもべたちに等しく1ミナが託されました。1ミナは100デナリ、平均的な労働者の100日分の給料、100万円と比較的少額です。マタイ25章では、しもべたちに5タラント2タラント1タラントと異なる金額が与えられています。それは一人一人に異なる賜物が与えられていることを意味しています。健康も能力も知力も異なり、遺伝的要素も生まれ育った環境にも差があり、しばしば不公平、不平等と思える時があり、豊かに与えられている人をうらやましく思う時があるかもしれません。

しかし、一番少ない1タラントでも、6000デナリ、約6000万円ですから、決して少ない額ではありません。つまり、一人一人が豊かで尊い価値を持っており、個性に応じた働きの可能性が用意されていることを示しています。「自分には何の価値も値打ちもない」と気落ちしてしまう人々は、まだ自分の価値を発見できないだけであり、まだ大きな可能性が隠されていることを意味しています。

では、すべてのしもべに等しく同じ1ミナが与えられていることは何を意味しているでしょうか。

1)クリスチャンであってもクリスチャンでなくても等しく平等に与えられているものがあるとすれば何でしょう。まず考えらえることは、すべての人に1日24時間が与えられている事実です。人生を生きる時間的な長さ(寿命)は一人一人異なりますが、すべての人に1日24時間が与えられています。そして同じ24時間をどのように使うかによって人生は異なってきます。24時間寝て暮らす人も24時間働き続ける人も決して幸せにはなれません。与えられた24時間を何のためにどのように楽しくかつ有意義に用いるかによって、その人のQOⅬ(人生の質)が豊かにもなり貧しくもなります。

さらに、「わたし」と言う存在も一人です。コピーもいません。分身・変身するわけでもありません。一人一人がかけがえのない尊い存在なのです。その意味ですべての人は対等であり平等といえます。しかし悲しいことに、罪が平等を損ない、比較を生み、差別を作り出し、支配関係の中に巻き込んでしまい、存在価値を見失わせてしまうのです。


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)ではすべてのクリスチャンに等しく平等に与えられているものとは何でしょうか。

第一は、真理のことばです。イエス様はベタニアのマルタに「なくてならぬものは多くはない。いや一つだけである」(ルカ1042)と、イエス様が語る神の言葉を聞くことを教えました。なぜならイエス様の言葉はいのちの言葉(ヨハネ663)であり、真理の言葉(ヨハネ1717)だからです。

イエス様のもとに来る人々は等しく「神の真理」のことばを聞くことができ、真理は私たちをあらゆる囚われから自由にします(ヨハネ832)。イエス様のもとに来てイエス様のことばを聞くまで、私たちはどれほど多くの偶像やこの世的な迷信に縛られ生きてきたことでしょう。ある方の収骨をさせていただきました。係の方から、御遺骨をふたりで一緒に長い箸で拾って骨壺に入れてくださいと言われました。その理由は「三途の川を渡る橋渡しをする」ためですと。橋と箸を重ねているのです。こうし迷信やしきたりに盲目的に従ってきたのでははないでしょうか。

第二は、ひとつの愛の御霊です

キリストを信じた人々には、神の御霊を心に宿すことができます。御霊は信じる者の心の中に生きてくださるイエス様ご自身であり、キリストの愛の御霊とも呼ばれています。イエス様は真実な愛に満ち満ちていたお方ですから、私たちを苦しめてしまうさまざまな感情的な束縛、怒りや復讐心、妬みや恨み、敵意や嫌悪感から解放し、心の平安へと導いてくださいます。アガペーの愛のみが、あらゆるマイナーで否定的で悲観的な感情の塊をも溶かし、連鎖を断ち切ることを可能とします。

第三は、永遠の神の国です

私たちは地上では異なる場所に分かれて住んでいます。死をむかえれば、天と地と異なる世界に分かれることになります。しかし「私たちの国籍は天に在る」(ピリピ320)という大きな希望を与えられています。一つの永遠の国に、神の家族として生きることができるのです。

4 すべての神のしもべに、等しく平等に神の恵みが与えられている「いのちの言葉、愛の御霊、永遠の神の国」。これらは単に与えられたものである以上に、用いるように教会とクリスチャンに託された恵みでもあるのです。

二人のしもべは豊かに用いて、帰って来た主人から大いに喜ばれました(1719)。しかし一人のしもべは、風呂敷に包んで家の中に置いたままでした。銀行に預ければ利息も付いただろうがそれもしなかったのです。なぜなら「厳しい取り立てをする方だから」(21)と主人を誤解していたからです。このしもべにとって主人は「恐ろしい怖い方」と映ったのです。だから何のアクションもとらなかった、とれなかったのです。何もしないという安全策を選んだのです。イエス様が示された父なる神は慈愛に富む愛の神です。パスカルは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリスト者の神は、愛と慰めの神である。この神はご自身のとらえたもう人々のたましいと心とを満たしたもう神である」(パンセ 556)と語っています。

最近、お話を聞いたある方は、「長いあいだ、私にとっての神は、いつも私を見張っているこわい存在。私が悪いことをしないか監視しているような神でした」と語られ、私はたいへん驚き、悲しい思いになりました。このように神を受けとめている限り、神のために喜んで生き生きとお仕えしようという思いが生まれてくる余地はないと思います。絶対失敗しない消極的な生き方しかできないことでしょう。ペテロは自己保身と恐怖のためにイエス様を「知らない」と3度も拒んでしまい、自分を激しく責め、自責と後悔の念に駆らました。そんなペテロを、絶望の淵に落とし込ませないために、やさしいまなざしで振り返ってくださったイエスの愛を経験してほしいと心の底から思いました。

イエス様が不在の間、帰って来られるまでの間、教会とクリスチャンが働く時とされています。真理の言葉と愛の御霊と永遠の神の国を語り伝える伝道の時でもあります。

反対者の多い世の中で耳を傾ける人々が少ない難しい忍耐を要する時であるかもしれません。しかし、私の父は今に至るまで働いている、わたしも働く」(ヨハネ517)と言われた主と共に、いそしみましょう。

神の恵みは包み隠しておくためにあるのではなく、豊かに用いていくことによって、その真価を輝かせていくことができるのです。


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