2023年6月11日 ルカ20:9-19
エルサレム神殿でイエス様が宮きよめをされた後、ユダヤ教指導者たちとイエス様との対立はますます深刻化しました。イエス様は次のような例え話を、宮に集っている人々に語りましたが、明らかに律法学者や祭司長、長老たちの不信仰・不従順に対する辛辣な内容でしたから、彼らの憎悪心はますます強くなりました。
1. ぶどう園の所有者と農夫たち
ぶどう園の所有者が、そこで働く農夫たちに土地を貸して遠くへ旅に出た。季節になって収穫の分け前を得ようと、しもべを農夫たちのもとに遣わしたが、こともあろうに、袋叩きにして追い返してしまった。当時の習慣では所有者は収穫の30%-40%を受け取ることができました。二人目三人目も同様に追いかえしてしまいました。マタイでは「一人を袋叩きにし、もう一人を殺し、もうひとりを石で打った」(21:35)とありますから、とんでもないしもべたちです。しもべというよりもう犯罪者です。罪とは、本来神に所属するものを、神に返さず自分のものにしているところにあります(蓮見和男)。
この譬え話に登場する、ぶどう園を造った所有者は神ご自身、ぶどう園を耕し収穫を得るために働く農夫たちは、ユダヤ民族を信仰的に導く役割を委ねられた指導者たち、遣わされた3人のしもべたちとは、旧約時代の多くの預言者たちを指しています。
通常ならば、農園の所有者は激高し、こんな悪しき農夫たちを厳しく処罰し排除してしまうところですが、なんと、ぶどう園の所有者は四人目に自分の息子を農夫たちのもとへ遣わしたのです。ところが悪しき農夫たちは、息子とわかっていながら敬うどころか、殺してしまい、農園を完全に奪い取ろうとしました。自分たちの所有物にしてしまおうと画策したのです。全くひどい話です。明らかにイエス様はここでご自身の十字架の死について譬えの形式で語っておられます。人間の背きの罪は神の御子さえも十字架につけて殺してしまうほど闇が深いのです。
私たちは今朝、3つのことを学びましょう。
2. 神のご忍耐と愛を学ぶことができます。
神様は怒りと処罰を農夫たちにくだす前に、ご忍耐を示して農夫たちが悔い改めることを願われました。なぜでしょう。農夫たちを通してぶどうの実の収穫を得ようと願われたからです。葡萄の実は、ユダヤ民衆の救い、ひいてはイスラエルの救いを指しています。
もっと広く言えば、神を見失い、罪に悩み、死の恐怖におののき、人生の虚しさに嘆き悲しむすべての失われた人々を指しています。神は、一人でも多くの罪人が神のもとに立ち帰り、悔い改めて、救いを得ることを願っておられます。「御子を信じる者がひとりもほろびることなく永遠のいのちを得るためです」(ヨハネ3:16)。
そのために神は、働き人を多く必要としています。「収穫は多いが働き人が少ない」(ルカ10:2)という現実は、イエス様の痛みにちがいありません。その上、神の働き人といえど、完全無欠ではありません。神は、完全で力ある天使を用いるのではなく、不完全な罪深い人間を用いて、人を救いへ導こうとされました。もし完全な働き人によってのみ、人が救われるとしたら一体どれだけの人が福音を聞き、父なる神を信じ、御子キリストを信じ、救われることができるでしょうか。たとえ働き手が不完全でも、働き手が語る「福音」が完全であるため、それでよしとされたのでした。
それゆえ神は忍耐の限りを尽くし、最後まであわれみを注いでくださいます。不十分なものさえも用いてくださる神のご忍耐とあわれみに、ただただ感謝するほかありません。神はそれほどまでして、失われゆくご自分の民を愛し、救いを願っておられるのです。
3. 神の御子が遣わされたことは、最後のチャンスでした。
あらためて私たちは、神の御子が最終的に遣わされたことの重みをかみしめたいものです。
イエス様は永遠の救いを罪あるものを赦して迎え入れてくださる、神のラストカード。父なる神様は最後のとっておきの一枚のカードを切ってくださいました。ヘブル1:1-2では「終わりの時には御子によって私たちに語られました」と明言しています。キリストの言葉は「永遠のいのちに至る救いの言葉」であると同時に、最終的な「滅びに至る警告の言葉」でもあるのです。あなたの人生ゲームで、とっておきのビッグカードが切られ配られました。手に入れるかパスするか、あなたの自由意志にかかっています。
4. 「見捨てた石」こそが「裁きの基準」となる
イエス様は詩篇118:22、イザヤ24:4-8を引用しました。隅の頭石とは、石を積み上げてアーチなどを造るとき、最後に打ち込む重要な石のことです。あるいは建築物の土台となる基礎石を指します。宗教指導や民衆に拒否され、無用な存在として、捨てられた石のようなイエス様こそが、神の御国の頭石となられたお方だったのです。キリストの十字架の死は、敗北のように見えながら、実は復活と言う勝利につながり、死からいのちへ、滅びから救いへ、十字架の茨の道は栄光に輝く永遠のいのちの道となったのです。
さらに「この石の上に落ちれば砕かれ」(18)、「この石が上に落ちてくれば粉みじんにされる」(18)とイエス様は警告されました。いずれにしろ、この石が審判の基準になるというのです。神が遣わされた救い主イエスを受け入れるか拒むか、それが永遠のいのちを得るか、打ち砕かれ滅びるかの分かれ目になるというのです。人は律法を守れないから裁かれ滅びるのではありません。人は神が遣わされた救い主イエスを信じないから滅びるしかないのです。十字架の赦しなくして、神との和解は存在しないからです。誰一人、生まれながらのままでは、神の国を受け継ぐことができないからです。生まれながらの罪人は、神の御子イエスの十字架の死による赦しが必要だからです。
「私たちはこの御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ1:7)
キリストの十字架の死は、世の人々の目には何の価値もないかもしれません。2000年前のキリストの十字架の死が現代人にとって何の意味があるのかと侮るかもしれません。
ミケランジェロは多くの芸術作品を世に残しましたが、高さ5mもある有名な「ダビデ像」は、石切り場で石工たちが切り出したまま、およそ40年近く、捨てられ放置されていた大理石で作ったそうです。
神は、世の人が見捨てた石から、隅の頭石を創りだされました。人々が見捨てて十字架につけた神の御子イエスこそ、万民の永遠の救いの岩となられたのでした。
「十字架のことばは滅びる者には愚かであるが、救いにあずかる者には神の力です」(1コリント1:18)