【福音宣教】 復活を信じますか、信じませんか

2023年6月25日 ルカ20:27-40

最近ある方が「イエス様の十字架の愛は信じられるのですが、復活となるとまだ信じられないんです」と話してくださいました。私はうれしく思いました。十字架の死の恵みを受け入れることができているならもう富士山の8合目まで到着しているようなものです。頂上に登らなくても、8合目でも眼下に広がる雄大な景色を楽しむことはできます。まず、イエス様の十字架の恵みを味わいましょう。十字架も復活もすぐ信じましたという人は少ないのではないでしょうか。

エルサレムに入城後、神殿内では、イエス様とユダヤ教指導者たちとの論争が続きました。先週はパリサイ派の指導者たちが「ローマ皇帝に税を納めるのは律法にかなうことか背くことか」と論争を仕掛けてきました。今週は「復活はない」主張するサドカイ派の指導者との論争です。サドカイ派とは、主に裕福な祭司階級や貴族階級の人々の中に浸透していたユダヤ教の一派で、ギリシャ哲学の影響を受け、復活や天使の存在も否定し、メシヤによる神の国の到来も信じませんから、地上の幸福がすべてと考え、現世的な政治的集団でローマ帝国の施策にも協力的な人々でした。メシアによる神の国の到来を信じ、律法を厳格に守るパリサイ信仰熱心なパリサイ派とは対照的なグループでした。復活を信じないサドカイ派の人々が今回は、イエス様に論争を挑んできました。

ユダヤの国では、子供がないまま兄が死亡した場合、弟が兄の妻をめとって、後継ぎとなる男子をもうけなければならないという定め(申命記255)がありました。そこでサドカイ派が、こんな話を持ち出しました。「もし、7人兄弟がいてつぎつぎと子がないまま死んだ場合、長男に嫁いだ女性は復活の時、いったい誰の妻になるのですか」と。

「復活を信じるならばこういうややこしい問題も起きてくるではありませんか?」とイエス様を問い詰め、復活を信じることなどそもそも愚かなことと挑発したのです。

現代的に言えば、再婚した女性や男性は、天国では誰の妻や夫になるのか? 激しい家庭内暴力でやっと離婚できた女性は天国でまたその男性の妻になるのか? といった質問と似ています。

イエス様は、「神の国では、結婚はもはや存在しない。なぜなら神の子たちは天使に等しく、死ぬこともないからである」と答えました。つまり、完成された神の国では、結婚も離婚も、出産もお葬式も、病も死もない、なぜなら神の国に入る者はすべて「永遠のいのち」を持つからであるとイエス様は教えたのでした。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」(38)。「永遠の神に前に、すべての者が永遠のいのちを受けて生きるのです」と、明確に永遠のいのちに生きる復活をイエス様は主張されました。復活の旧約聖書的根拠として、出エジプト36節を引用し、モ-セに燃える柴の中からご自身を啓示された神は、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(37)と宣言されたことばを引用しました。アブラハムの神でしたという過去形ではなく、今も生きているアブラハム、イサク、ヤコブにとっての神であり、神の民と共に生きる神であることを示しています。このイエス様の回答に、復活を信じるパリサイ派の人々でさえ「先生、りっぱな教えです」(39)感服しましたと脱帽するほどでした。

少し整理をしておきましょう。

第一に、復活を否定するサドカイ派に対して、イエス様は永遠のいのちに生きる「復活」をはっきり主張しました。この世にはサドカイ派の人々のように、死からの復活など信じられない、ばかげた話だとあざ笑う人々が多います。一方では、天国に入るには道徳的に倫理的に清く正しくまじめに生きなければならない。神の戒めをちゃんと守り、熱心に宗教活動に励まなければならないと主張するパリサイ派のような人々もいます。十字架の身代わりの死と言う犠牲愛は受け入れやすいですが、復活となると信じられないと洗礼をためらっている方もいます。

まずはイエス様の十字架の死による「罪の赦し」を信じ、受け入れ、心の平安をいただきましょう。というのは、この地上の生活ではさまざまな対人関係で悩み苦悩します。赦すことができなく、怒りや恨みや憎しみでこころが膨れ上がり、仕返し(復讐)してやるとまでエスカレートしてしまうこともあります。人は怒りや憎しみを抱えたままでは安らかに死ねません。ですから、まずキリストの十字架による「罪の赦し」の恵みを経験することが先決です。そしてキリストの平安でこころ満たされましょう。

やがて、あなたが死と言う現実と向き合わざるを得ない時が人生には遅かれ早かれ必ず来ます。その時にきっと「復活のいのち」がどれほどあなたの残された人生に平安と希望を与えるかきっと感謝と共に味わうことでしょう。今、わからなくても、死の力からの復活を信じ受け入れましょう。時折、私は思います。もし天国への希望がなかったら、苦しい病床でどう生きたらいいのだろうか。病床で残された時間をどう過ごしたらいいのだろうかと。神の国を仰ぎ見ることができることは何と幸いなことだろうかと。

第二に、ただし、すべての人が復活のいのちを得るのではありません。イエス様は釘を刺されています。35節「次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するにふさわしいと認められた者は」と、条件が付けられています。死んだら誰でも天国行くわけではありません。この世の宗教は死んだら誰でも仏になり神になり極楽に往生する、最近ではキリスト教用語を引用して「天国へ行く」とさえ言います。どうやら最近できた「天国」は、仏さまや神様でいっぱいで混みあっているようです。しかし聖書は、「罪ある者は聖い神の御住まいである神の国に、そのままでは入ることができない」と教えます。言葉と行いにおいて生まれながらの肉なる者は罪深く汚れているからです。そのために、神が遣わされた御子イエスキリストの十字架の身代わりの死を信じ、受け入れた者は、無条件で十字架の血による「罪の赦し」を受け、聖い神の御もとに近づくことができるのです。神の国の扉は確かに大きく開かれています。すべての罪人が差別なく招かれています。しかし、救い主となられた御子キリストの十字架の罪のゆるしを信じる者に、扉は開かれるのです。「御子を信じる者は滅びることなく、永遠のいのちをもつのです」(ヨハネ316

第三に、イエス様が「今もアブラハムの神である」と言われたように、復活後の人格と身体には「連続性」が認められます。死んで葬られても、アブラハムはアブラハムとして覚えられているのです。私たちも復活のいのちと身体が与えられても、なお「私は私」として個性を保ちながら神の御前に生きることになります。今の私と天国の私との間には、連続性があるのです。苦しみや痛みや悲しみや涙はすべて拭い去られ(黙示録214)、記憶から取り除かれていますが、きっと喜びや楽しみや懐かしさや愛や親しみはしっかりと保存され、記憶をたどることができるという意味ではないでしょうか。つまり神の子どもとされた者たちには「再会」の喜びと交わりが約束されているのです。献身者時代、韓国でクリスチャン学生と交流するツアーに参加しました。釜山で別れる際、彼等は手をふって「さようなら」よいう代わりに、天を指さして「また会いましょう」と挨拶をしてくれました。たいへん印象深くこころに残っています。

そして何よりも、私たちのために十字架で死なれ、初穂としてよみがえられたイエス様と天の御国で、お会いできることは、最大のよろこびではないでしょうか。この希望があるゆえに、私たちはやがて迎えるキリストの再臨と神の国を待ち望みながら、復活の希望を信仰によって抱きつつ、与えられた今を、今日一日を感謝して生きることができるのです。

生きておられる神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして私の神でもあるからです。主イエスは生きている者の神です。

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