2023年7月2日 ルカ20:41-47
エルサレムに入城後の3日間、神殿内では、連日イエス様とユダヤ教指導者たちとの論争が続きました。先週は「復活はない。天使の存在も否定。メシヤによる神の国の到来も信じませんから、地上の幸福がすべて」と考える、現世主義的なサドカイ派の指導者との論争の場面でした。イエス様は彼らに「死者からの復活」と「神の国での永遠のいのち」こそが、この世での成功や繁栄や富にまさる、人生のゴールであることを強調しました。
今日の箇所では再び、律法学者たちとの論争が始まりました。今回のキーワードは「ダビデの子」(41)という言葉です。
Ⅰ 期待されるメシア像
「メシアはダビデの子」ということばには3つの意味があります。
第一は、ダビデ王の子孫からメシアと呼ばれる救い主が誕生するという預言者的な意味です(イザヤ11:10)。イエスの母となったマリアもその夫のヨセフもダビデの家系に属していたことからも預言は成就しました。マタイは「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエスキリストの系図」(マタイ1:1)と福音書の冒頭で記しています。
第二は、ダビデ王のように地上に強力な王国を再建するメシアという意味です。律法学者とその教えに忠実に生きようとするパリサイ人の間には、メシアに対する過激な思想が広がっていました。メシアはローマ帝国の支配を武力で打ち破り、異邦人の手から解放し、かつてのダビデ・ソロモン時代のような栄光に満ちた神聖国家の再建を実現する方と期待されていました。そのようにして扇動された民衆による武装蜂起がユダヤの各地で起こるたびに、反乱暴動には容赦ないローマ軍によって完全に鎮圧され、暴徒たちは虐殺されました。イエス様は無用な流血は良しとされませんでした。
第三は、イエス様が説き明かしておられる意味です。最高の王位と王権を持つダビデ王でさえ、メシアを「わが主」と告白しているではありませんか?。メシアは地上の王ではなく、全能者の右の座に着座され、地においても天においても、今の世も後の世をも、全世界全と全宇宙をすべおさめられる永遠の王であることを意味しています。
いずれにしろ、イエス様はローマ風の文化や価値観を取り込み、現世的な物質的繁栄の中に幸福があると考えるサドカイ派の考えを退け、一方では思想的に熱心な余り過激主義に走り民衆に虐殺と流血をもたらすような無益な争いを強く戒められたのでした。何よりもイエス様は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」(マルコ10:45)と、しもべとしてのメシア、十字架の死に至るまでも父なる神に従順に歩まれた苦難のメシアとしての、真の姿を世に示されたのでした。
Ⅱ 律法学者たちへの裁き
イエス様はしもべとして歩まれましたが、神のしもべであるはずの律法学者たちの厚顔無恥なおごり高ぶった言動を強く非難されました。彼らは、学者としての権威を現わす特別な衣服を身にまとって外を歩き、街中で人々から恭しく挨拶されることを好み、会堂では正面の特別席に座り、宴会に招待されればかならず上座に陣取るありさまでした。優越感を味わい人々の上に立とうとする傲慢さをイエス様は見抜いて厳しく叱責されたのでした。
もちろん深い学識に立つ立派な律法学者も多くいることをイエス様はご存じです。律法を厳守し裏表のない真しなパリサイ派もいることをご存じです。しかし多くの律法学者たちは、世的な権威にしがみつき、神の御こころから逸脱し、民衆をミスリードしていたのでした。
Ⅲ しもべとして互いに仕え合う
イエス様がおよそ3年にわたり飲食を共にして弟子たちに示したのは、「仕えるしもべとしてのメシア」の姿でした。その究極の姿こそ、十字架の死でした。パウロは次のように語っています。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6-8)
罪の赦しと復活のいのちを与えるためイエス様は十字架で死なれました。罪なき者が罪を背負い、罪人の身代わりとなって死ぬことができるほど、罪人を愛されたのは、神の御子イエス様、ただお一人でした。御子のみがそのような無償の愛を示すことができました。イエス様はご自身の弟子たちに対して、洗足の見本を示し、「互いに仕え合う」ことを教えられました。すべての弟子たちがイエス様のように犠牲的な愛をもち、殉教の死を遂げるわけではありません。むしろ、すべてのキリスト者はイエス様が、最期の夜に、しもべとなって弟子たちの足を洗われた姿を心に覚えるべきです。
最期の夜、イエス様は上着を脱ぎ、手ぬぐをとって腰に巻き、弟子たちの足を洗われました(ヨハネ13:14)。これはしもべ以下の身分である奴隷の仕事とされていました。
「互いに足を洗いなさい」とは、「互いに仕えあいなさい」という意味です。互いに仕えるためにはへりくだることが求められます。へりくだることは神を見上げることなくしては不可能です。神の前にへりくだるからこそ、人の前でへりくだって仕えることができるのです。人と人との関係性の中だけでは仕えることに早晩、限界がきます。「下手に出てりゃ調子に乗りやって!」と、ばかりに怒りが爆発してしまいやすいものです。
昔、アメリカコロラド州の神学大学の学長の家に招かれた時のことです。夕食後、学長自らがエプロンをして食後のお皿洗いを始めました。奥様は私たちとの会話を楽しんでおられました。その姿を見て感動した若手の牧師たちは「日本に帰ったら実行しよう」と決心しましたが・・3日と続きませんでした。私もその一人です。家庭の中では、互いに仕えなさいという言葉は、「互いにお皿を洗いなさい」と言い換えることができそうです。
イエス様の全生涯は、神に仕え、世の人々に仕えぬく生涯でした。罪人のために十字架でいのちさえもお捨てになるほど愛に生き抜かれました。イエス様は出世争いをする幼い未熟な弟子たちに、繰り返し「あなた方の中で一番偉大なものは、あなたがたに仕える者でなければなりません」(マタイ23:11)と教えました。
A・リチャードソン博士は「イエス様は神のしもべです。そして私たちは神のしもべのしもべなのです」と語っています。
主のしもべとして、互いに仕え合いながら歩んでまいりましょう。私たちの主は、仕えられるためにではなく、仕えるために来られたお方なおですから。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ロマ5:8)