2023年7月30日 ルカ21:29-38
イエス様は、40年後の都エルサレムと神殿の破壊と滅亡について預言しつつ(21:20-24)、未来に起きる終末の数々の予兆(25-28)と審判について預言されました。3つのポイントを学びます。
1.この天地は滅びます(33)
2.油断せず祈っていなさい、人の子の前に立つことができるように(36)
3.主イエスのことばを信じなさい(33)
1.天地は滅びます
1)神の御子キリストの宣言です。この世界は未来永劫続くのではありません。始まりがありそして終わりがあります。創造があり終末があります。聖書が告げる「時間観」を理解することは重要です。日本人の時間観は「円環思想」(春夏秋冬・季節はまわる)、宗教的人生観は「輪廻転生」といえます。そのうえ、悲しいことに人生の終わりの日は誰にもわかりません。いいえ、人生の終わりが来ることさえ、普段はほとんど意識していません。終活をはじめた方に家族がそんな縁起の悪いことはやめて!と止めたそうです。備えがなければパニックに陥ってしまいます。そして世界の終末があるように、個人的な人生にも終末がありますが、その日は「創造主であるまことの神と会う日」でもあります。その日はある者にとっては「審判の日」、ある者にとっては「救いの完成の日」そして全世界にとっては「万物が一新される神の国の完成の時」となります。
2)さて、終末が近づくにつれて、さまざまな前兆(戦争・紛争・地震・飢餓・疫病・異常気象・天変地異など)がみられるようになります。先日、国連のグテレス事務総長は「地球沸騰化」の時代と警鐘を鳴らしました。しかしながら聖書は、そうした数々の前兆に惑わされないようにしなさい。それらは確かに「神の国が近い」(31)ことを告げていますが、まだ始まっていません。マルコ13:8では「産みの苦しみの始まり」にすぎないと告げられています。むしろなによりも、慎んで落ち着いた生活をするようにとイエス様は勧めています。
キリストの再臨を間違って理解し、混乱に陥っていたテサロニケの教会に対して、パウロは正しい理解を持ち、ふさわしい生活をするようにと訓戒しました。兄弟姉妹たち、あなた方は救いに定められている光の子であり、闇の子ではありません。「だから信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みを兜としてかぶって、目を覚まして慎み深くしていましょう」(1テサロニケ5:8)と「いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する」(5:6-8)生活を穏やかに過ごすようにと励ましました。
3)ある人は「いつまで待てばいいのでしょうか」「もう2000年も経っているじゃないですか」と思うことでしょう。その答えは明白です。それは父なる神が、「すべての者が救われ、真理を知るようになることを願っておられる」からです(1テモ2:4)。ここに「宣教の重要性」があります。残された時を有効に用いることが求められています。神は一人でも多くの人が救われ、神の国の民となることを願い、忍耐の限りを尽くしてくださっているからです。
クリスチャン人口は台湾が7%、ミャンマーが8.7%、日本が1%という現実があります。2000年経ってもなぜ、キリストは再臨されないのでしょう? その答えは明白です。まだ救われるべき人々が多くいるからです。神は忍耐して待ってくださっているからです。だからイエス様は、「収穫は多いが働き人が少ない。」(マタイ9:37)と弟子たちに、祈りを命じられました。働き人とはフルタイムの牧師や宣教師を指すだけではなく、今日では、「すべての信徒を指します」。クリスチャン人口1%ですが、100万人の信徒伝道者・信徒牧師がいて、それぞれの場所で活躍していたとしたら、どれほど多くの実を結ぶことができるでしょうか。
2. 油断せず祈っていなさい(36)
人の子が再びおいでになる「再臨」を待ち望みなさい。気をつけていなさい(34)、油断せず祈っていなさい(36)という動詞は現在形ですから、継続性を意味します。それは再臨を待ち望む信仰者の基本的生き方といえるでしょう。
防災訓練や避難訓練が定期的に繰り返されますが、普段から意識していないと、災害があたかも突然やってきたかのように思い、無防備状態でパニックに陥ってしまうからです。キリストの再臨の日は、「すべての人に及ぶ」(35)地球規模サイズの出来事とされています。だから、再臨の主の前に立つことができるように、油断せずに祈り続けなさいと勧告されています。
油断とは、「放蕩や深酒やこの世の思いわずらい」(34)のために、沈み込んでしまっている状態を指します。一方、目を覚ましているとは「主よ、おいでください」と賛美しつつ、主を待ち望む信仰を生き生きと保ち続けることです。黙示録22:12では「再臨の約束」が記され、20では約束への応答、すなわち「待ち望む教会の讃美と祈り」が記されています。
黙22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
黙22:20「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」
このような日々を歩むために、よみがえられ天の御座に着座された主イエスは、ご自分の御霊を信じる者たちに分かち与えてくださいました。キリスト者の心に永住される聖霊は、主キリストを待ち望み続ける生活を支え導かれます。
3. 主イエスのことばを信じなさい
天地は滅び去っても、キリストの言葉は決して滅び去ることはありません。ユダヤ人にとって神の都エルサレムと神殿は「永久不滅の存在」であり、絶対的な信仰の拠り所でした。しかし、都は異邦人の手によって破壊され、神殿は炎上し完全に瓦解しました。目に見えるものは、決して人生の拠り所とはならないことを悲惨な大事件を通してユダヤ人は学びました。当時、エルサレムに住むキリスト者は神殿に固執することなく、「山に逃れよ。都に入ってはならない」(21)と言われたイエスの言葉に従い、山岳地帯であるペレア地方のペラに逃れ、移り住んだのでした。
いつまでも残るものは、信仰と希望と愛の3つです。キリストの言葉を信じる信仰と、キリストの十字架の愛への応答と、キリストの復活によって扉が開かれた永遠の命と神の国のと超し絵の希望に生きる姿です。決して揺らぐこともない、すたれることもない、むなしく消え去ることもないキリストのことばを信じ、従いつつ、与えられた再臨までのかけがえのない日々を歩み続けましょう。
「この天地を滅びます。しかしわたしのことばは決して滅びることがありません」(ルカ21:33)