2023年8月27日 ルカ22:31-34
今日の中心聖句は32節「私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」です。イエス様に祈られている私たちであることをこの朝、感謝しましょう。
いよいよイエス様のご生涯も24時間を切りました。最後の夜の食事の席で、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗うという洗足の行為をもって、謙遜と従順をもって、神に仕え隣人に仕える「しもべの精神」を、イエス様は身をもって示されました。さらに、翌日に迎えるキリストの十字架の死による救いを、心に深く覚え記念するために聖餐式を定められました。そして、銀貨30枚でイエス様を敵に売り渡して去っていくユダを覚え、私の弟子とは、「さまざまな試練の時も最後までついてくる者である」ことを語りました。
1. 弟子たちが見せている2種類の傲慢さ
先週学んだように弟子たちの心はまだ御霊によって整えられておらず、肉的でこの世的な思いに囚われていました。第一に、誰が一番偉いかという競争意識と高ぶり、第二に、ペテロが33節で「牢であろうと死であろうと、覚悟はできています」と語っている「肉的ながんばり」です。イエス様と一緒なら投獄の苦痛も殉教の死も覚悟はできていますと、ペテロは自らの決意決心覚悟を披瀝しました。これを「肉的な頑張り」といいます。肉的な頑張りを支えているのは「ねばならない」という強迫的な完璧主義です。
「槍でも鉄砲でももってこい」と勇ましいことを語りながら、実際に鉄砲を向けられたらまっさきに逃げ出すようなものです。ある宣教師が「日本人は「3つのG」が大好きです。「義理人情に義務感に頑張ります」だそうです。義務感は、最後まできちんとしなければならない、中途半端なことをしていては死んでも死にきれないというほどの強烈な「ねばならない主義」を指します。「へろへろでも頑張ります」と弱音を見せないで強がる「ガンバリズム」も挙げることができます。これらの3つは、決して悪いことではありませんが、時には、信仰の妨げになってしまいます。なぜなら、自分の弱さや限界を認められず、受け入れられず、最後までだれにも頼ろうとせず、自力でやり遂げようとするからです。自分の弱さや限界を認め、受け入れ、他者に素直に頼ることは「他者を信頼して生きる」ことの原点です。そして、しばしば他者に完全に頼りきれない現実を知って、人を恨んだり人間不信に陥るのではなくそこから人にではなく神に信頼し、神にゆだねることを学ぶときから、「神信仰」が生まれ、育まれていくのです。弱さを見せず頑張らねばならないという根底には、自己信頼・自力信仰があり、結果的に、恵みの神をしりぞけてしまうことに通じてしまいます。弱さはむしろ真実な力なのです。
自分の弱さを認め受け入れてこそ、そこに働く神の恵みの力を経験することができます。
弱さの中に働く力(2コリント12:9)は、キリストから神の子とされた者たちに贈られた豊かな賜物なのです。実感できる恵みなのです。
2. 弱さは祈りに変わる
自分の限界や弱さを認めるとき、人は神の前にも人の前にも謙遜になります。こうして神の前に助けを呼び求めるとき、それは「謙虚な祈り」へ変わります。
この謙虚な祈りは、最大の発見をもたらします。それは「私が神に祈る前に、神が祈ってくださっている」という発見です。「一生懸命、祈っている自分」ではなく、「神に祈られている自分」を発見することです。
「牢獄でも死でも覚悟できています」と豪語したペテロでしたが、その数時間後にはイエス様が逮捕され、大祭司の中庭で尋問を受けるとき、居合わせた女中から「あなたもイエス様の弟子でしたね」と指さされたとたんに、「イエスなど知らない」と3度も拒んでしまいました。そんなペテロのために「あなたはふるいにかけられるが、あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈った」(32)とイエス様は語ってくださいました。
ゲッセマネの園で、イエス様のために半時も祈れず睡魔に陥ってしまったペテロですが、イエス様はペテロのためにいつも祈り続けてくださっていました。
あなたの信仰がなくならないようにとイエス様は祈り執り成し、支え、守ってくださっています。ほかの何かではありません、「信仰」です。神を信じキリストを信じる信仰はなくなってはならない大切なものです。大切な信仰そのものを何よりも尊いものと認め、なくならないようにと祈ってくださっているのです。
神はサタンがペテロや弟子たちを振るいにかけることを許しました。それはサタンの力に勝るイエス様の執り成しの力があるからこそ許容されました。たとえ、サタンが猛威を振るってもなおそこには限界があり、イエス様の愛が勝利するのです。
「よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのは誰でしょうか」(ロマ8:34-35)
3. イエス様の祈りの執り成し
さらにイエス様は「あなたが立ち直ったら兄弟たちを力つけてやりなさい」と励ましました。弱さの中から神の恵みの力によって引き上げられたものは、神の恵みを伝える新しい担い手、恵みの祈り手、奉仕者となっていくのです。こうして弱さの中に働く神の恵みは、語り伝えられ、受け継がれていくのです。
「力づける」(sterizw)という言葉は、固く据える、固定する、支える、強めるという意味で、牧会的な用語です。慰め、励まし、勇気づけることを指します。2ペテロ1:12では、「現にもっている真理によって「固く立っている」あなたがたである」と訳され、み言葉の真理が私たちを固く立たせることが教えられています。さらに、イエス様がなさったように、教会と兄弟姉妹のために「執り成し祈り続ける」ことも実は霊的な大きな励ましとなり、互いを強める、支えることになります。
イエス様はこの二つをもって、十字架と復活後の教会とキリスト者の歩みを支えてくだったのでした。永遠の大祭司であるキリストが今も、これからも、祈ってくださっています。
キリストの祈りの中に置かれている自分を知って、そこに安息を見出すのです。
「私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり」(へブル8:1)、「私たちの弱さに同情できない方ではありません」(へブル4:15)。
「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」(へブル4:14)。