【福音宣教】 ゲッセマネの祈り

2023年9月10日 ルカ22:39-46

最後の晩餐と呼ばれる食事が終わり、イエス様はいつものようにオリーブ山に出かけ弟子たちも従いました(39)。いつものようにとあるように、イエス様は夕食の後、祈りの時を持っておられました。「いつもの場所で」(40)とあるように、祈りの場も定めておられたようです。私たちは夕食後、いつものようにテレビ番組を見たり、ゲームをしたり、あるいはお風呂に入るかもしれませんね。しかし、イエス様はいつものようにいつもの場所で、祈られました。イエス様にとって祈りは習慣化され、生活の一部になっていたことを教えられます。

1. みこころを尋ね求める祈り

何をイエス様は夜を徹して祈られたのでしょう。それは「十字架の死」を改めて受けとめていく祈りでした。イエス様は十字架刑のむごさを当然ながら知っておられました。それゆえ人となられたイエス様は十字架の苦難と死を、「この杯を」取り除いてくださいと率直に祈られました。イエス様の祈りには、「みこころならばこの杯を取り除いてください」という嘆願の祈りと「みこころを求め」「みこころの通りにしてください」という明け渡しの祈りという2つの内容が含まれていました。イエス様の祈りは、み使いの力添えを必要とするほどの祈りであり(43)、汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの祈りでした(44)。そのことから、どれほど苦悶苦闘に満ちの祈りだったことか、推し量ることができます。

神のみこころを求める祈りは、たやすいことではありません。神の御子のイエス様をして、父のみこころを求めることは簡単なことではありませんでした。神のみ旨を知るための祈りは、ク-ラーのよく効いた部屋の中で柔らかなソファーに座って、数分間だけ祈るという祈りとは大きく異なります。振り返れば、私たちはみ旨を真摯に尋ね求めることよりも、自分の願いを聞いてもらうことに、祈りの重点をおいているのではないかと振り返らされます。

2. みこころに従う祈り

さらに「父のみこころに従う」祈りは、みこころを求める祈り以上に、多くの時間とエネルギ―を要します。イエス様でさえ、夜8時過ぎに食事が終わり、ゲッセマネの園に出かけたとしても、数時間もの祈りの格闘が必要でした。「苦しみ悶えて」とさえ表現されるほど、イエス様は何に対してそれほど苦悶されたのでしょう。十字架の死という想像を絶する苦痛を恐れたのでしょうか。そうではなく、むしろ父を父と呼べず、「わが神どうして私をお見捨てになられたのですか」(マタイ2746)と叫ばざるをえないほどの「神との断絶」の苦しみではなかったでしょうか。まさに罪なき神の御子が、神に呪われた罪ある存在となっ、て神に見捨てられ黄泉に下るという、霊的な死の苦悩を引き受けてくださったのでした。イエス様は、魂が引き裂かれる思いをされたことでしょう。

3. 誘惑で途切れてしまう祈り

さて、イエス様がひとり祈っておられる間、弟子たちはどうしていたのでしょう。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40)とイエス様から求められていたのに、彼らは睡魔に襲われ、祈るどころか起きていることもできないありさまでした。ルカは「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(43)と弟子たちの失敗をやさしく弁護していますが、十字架の死をまだ受け止められなかった弟子たちは「悲しみ」を深く感じていたかどうかはあやしいところです。なんとなく不安は感じていたでしょうが、緊張感や切実感に欠けていたにちがいありません。マルコ1427ではペテロに対して「眠っているのか。1時間でも目をさましていることができなかったのか」というイエス様の嘆きのことばが記されています。1時間さえ祈れない、そんな現実の肉体的弱さを私たちは抱えています。でもそんな弟子たちそして教会の弱さと限界を、主イエスは「あなたの信仰がなくならないように祈った」(2232)と、執り成しつつ、十字架の道を、カルバリの道を歩んでくださったのでした。

4. 祈りの勝利

イエス様は弟子たちの支えもなく一人で祈りぬかれました。祈りはみんなで支え合って祈るものですが、やはり原点は一人で神様と向き合って祈る孤独なものであることを、改めてイエス様の姿から学ぶことができます。神の恵みと折にかなった良き助けを求める祈りにおいては、むしろ心を合わせ「ともに祈るように」とイエス様は教えてくださいました。

「あなたがたのうち二人がどんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださいます。二人でも三人でも私の名において集まる所には、私もその中にいるからです」(マタイ1819-20

ところが孤独の中で人知れず苦悶しつつ、「一人祈る」祈りもあります。それは「みこころに従う」ときに通らねばならない祈りの道です。「私のゲッセマネの祈り」とも表現できるでしょう。「主のみこころのままに」との告白に至るまで、委ねきる祈りは、神様と一人向き合う中で、御霊に迫られ、取り扱われ、それでも「避けたい、逃げ出したい、嫌です」と、拒否したい肉の思いと苦闘しつつ、ついにゴールに導かれるプロセスを辿るからです。ゴールとは自発的、主体的に「みこころのままに」と、明け渡して従うことです。兄弟姉妹の誰かから、あるいは牧師から「みこころのままに従いなさい」「すべて委ねて従いなさい」と勧められても、「はい、わかりました」と、従えるものでは決してないからです。

イエス様が祈りぬかれ、ついに「みこころのままに」との信仰の高嶺に達したとき、時刻はすでに真夜中を過ぎていました。数時間に及ぶ長い祈りとその後に続く大祭司の尋問という暗闇を抜けた時、朝の光がイエス様の御顔を美しく照らしだしたことでしょう。

このように、祈りぬいたゴールは、「祈りの夜明け」を迎えます。その時、「立ちなさい、さあ、行くのです」(マルコ14;:12)と、イエス様が弟子たちに毅然と呼びかけているように、「もやもや」や「わだかまり」が吹っ切れたようなすがすがしい境地に立つことができることでしょう。そこにはもはや、迷いもためらいも、不安や恐れも解消された、澄んだ魂の輝きと平安が満ちていることでしょう。

「私の思いではなく、みこころのままに」と、祈りの苦闘の中でイエス様は十字架の死に至る従順を学ばれたのでした。

へブル5:8-9「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者と」なられました。

イエス様が祈られた場所である「ゲッセマネ」とは、「オリーブの実から油を搾り取る」という意味があります。神のみこころに従っていくためには、さまざまな余分なものを搾り取られてゆくことをも象徴しているようです。
私たちはどれほど多くの物をひきづりながら天国への道を歩もうとしているでしょうか。
みこころを求め、従うことを願う祈りの中で、余分なもの、不必要なもの、信仰の歩みを重くしてしまうさまざまなしがらみを、聖霊はきよめ、取り除いてくださることでしょう。

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