20231001 イエスよ、あなたはキリストか否か ルカ22:63-71
大祭司アンナスとカヤパの非公式の尋問が終わり、イエス様は夜が明けると、長老会、祭司長、律法学者たちが集まる議会へと連行されました(66)。いわば正式なユダヤ教による裁判がおこなわれましたが、早朝から宗教議会が招集されることは前例がなく、深夜のうちに根回しが終わっていたと思われます。しかもイエス様の正式な裁判の前に、監視人たちがイエス様に私的な暴行を加えていますが(41)、だれも止めようとはしませんでした。国家権力や警察権力による不当な取り調べやでっちあげ事件、いわばえん罪事件がいつの時代でも後を絶ちませんが、典型的な例をイエス様の裁判の中にも見ることができます。
この裁判では2つの重要な問いかけが行われました。「あなたはキリストか」(67)と、「あなたは神の子か」(79)という質問です。
1. あなたはキリストか(すなわち救い主か)
救い主とはギリシャ語ではキリスト、ヘブル語ではメシアと呼ばれました。イエス様の時代、自らをキリストと名乗る者が、民を扇動してローマ政府に反抗する武装蜂起が各地で起きていました。その背景には、やがて世に現れるメシアは、ローマによる支配からユダヤ民族を武力で解放し、かつてのダビデやソロモンの時代のような神聖国家を再建する地上の王であるという期待が強くあったからです。メシヤは「王の位に着く」と熱望されていました。この質問に対してイエス様は「何を言っても私を信じないであろう。しかし、人の子は神の大能の右の座に着く」とはっきりと宣言されました。神の右の座とは、神の代理人として全権を任じられている主権者であることを意味しています。多くの偽キリストや反乱軍の首謀者などではなく、まことのメシアであることを宣言したのです。もちろん彼らはまったく信じようとはしませんでした。監視人たちにののしられ打ちたたかれている無力なイエスを、神の御座に着座される王なるキリストなどと想像すらできません。
しかし、ナザレのイエス、このかたこそがまさに神から遣わされたまことの救い主であり、この方以外に私たちを救いうる名は誰にも与えられていません。イエス様は「神の大能の右の座に着く」(動詞は未来形)と宣言されました。無から有を呼び出し、天地を造られた大能の神、永遠に存在しておられ、すべてをすべおさめておられる全能者なる神、み使いでさえ、「このお方にできないことは何一つない」と恐れおののく力と愛の神、その神から全権をゆだねられて右の座に着座される方が、代々の教会が信じる救い主イエスなのです。
人間が作り出したそこらそこ所の神々や救い主とはわけが違います。日本では八百万の神々がそれぞれの御利益を売り物にして「われこそ救い主」とばかり自己宣伝しています。イワシの頭も信心からですので、何を信じようと各自の自由ですが、最後の分かれ目は、あなたを永遠のいのちと神の国へと確実に導くことができる主権を持つ「救い主」か否かです。あなたの手持ちの救い主は大丈夫でしょうか。トランプのカードゲームで良いカードをひいて喜んだり、誰より早くあがって勝つことは楽しいですが、最後に「ババ」をひいたのでは悲劇です。人生は確かに何度でもやり直せますが、臨終を前にした最後の人生は1度だけです。その時、あなたが信じる救い主である神々は、あなたに罪の赦しと永遠のいのちと神の国を確かに保証することができるでしょうか。
*今、教会員の一人の姉妹のお父さんが危篤状態です。娘の姉妹に言わせれば「人を信じない、信用しない、信頼しない頑固な父親が、病床を尋ねてくださった牧師のことばを素直に受け入れ、イエス様を信じる告白をした。あとはぜんぶイエス様に任せたらいいんやと言っている。父を知っている私にとっては奇跡が起こったとしかいいようがない」と話してくださいました。自分を幸せにし、救いをもたらす多くの手持ちカードを持っていたはずのお父さんは、いま、「イエス様は救い主」というもっとも価値ある一枚のカードを手にして、喜びと平安を持っていらっしゃいます。
だれが罪の赦しを宣言する権威をもっているでしょうか。だれが死の力を無力にし、永遠のいのちを与え、神の国へ導くことができるでしょうか。言葉だけなら理想に満ちたありがたい救いの話をあれこれ語ることができるかもしれませんが、その裏づけとなる事実がどこにあるでしょう。しかし、事実、キリストは十字架の死によって全人類の罪を赦しきよめ、復活によって全人類を束縛している死の力を打ち砕いて、天の御座に着座されたお方です。こうしてイエスキリストは、ユダヤ民族の救い主だけでなく、すべての民族、全人類の救い主となられたお方です。
2. あなたは神の子か否か
宗教議会はもうひとつの質問をイエス様にしました。「あなたはメシア(キリスト)か否か」は、いわば職務に関する質問です。ところが「あなたは神の子か否か」は、職務ではなく、人格と本質に関するより深い問いかけです。イエス様は「わたしはそれです」(70)と明確に答えられました。日本人にはピンとこないやり取りですが、ユダヤ人にとっては驚くべき応答でした。かつてモーセがエジプトで奴隷生活の苦役で苦しむイスラエル民族を救い出すために神から遣わされる際、名もない老いぼれた一介の羊飼に過ぎない私を、同胞の民が信じるために、「あなたの名を教えてください」と願ったとき、神はモーセにご自身の永遠の名を初めて明らかに啓示されました。「わたしはあってあるものである」と(出エジプト3:14)。ギリシャ語で「エゴ・エイミ」と訳されました。
イエス様は最も深い隠されたご自身の御本質を明らかにされたことになります。「私が永遠の神である」とイスラエル民族を代表するユダヤ宗教議会に啓示されているのです。イスラエル民族の救いの歴史がこれを信じるか信じないかで大きく異なってきます。残念ながら、彼らは「これこそ神への冒涜だ」(マタイ27:65)、これ以上の証人が必要だろうかと、イエス様を切り捨てたのでした。
全イスラエルを救う神のみ旨が、彼らの不信仰と頑迷さのゆえに、この時から、異邦人の救いへと切り替わったといっても過言ではない決定的な瞬間といってもよいでしょう。
異邦人の救いの完成の時(ロマ11:25 携挙)まで、イスラエルの救いは後回しにされ、先のものが後になり、後のものが先になるとイエス様はすでに預言されました。
私たち異邦人に、信仰の告白の恵みが用意されています。偶像の神々の名をあいまいなまま信じ続けるか、「頼りになるのは自分自身だけだ」と、あてにならない自分の力と名をこれから先もやはり信じ続けるか、それとも目覚めて「イエス様、あなたこそ神の御子キリストです」(マタイ16:16)と信じるか、あなたが今、問われているのです。
イエスキリストこのお方が、あなたの永遠の救い主の名となりますように。