早速、み言葉に耳を傾けてまいりましょう
今日の聖書個所では、三人の人物が登場します。総督ピラト、囚人バラバ、主イエスキリストです。
1. 総督ピラトはユダヤ教指導者たちが、イエス様を死罪にあたる犯罪者であると訴えてきたとき、「厄介な問題が持ち込まれた」と苦慮しました。彼らは、「もし、イエスを死罪にしないならば、民を扇動し、暴動を引き起こす」と揺さぶってきたからです。なんとかしてくれると期待して、ガリラヤの領主ヘロデ王のもとへイエス様を送りつけましたが、ヘロデ王はイエス様を散々いたぶったあげく、俺には関係ないとばかり、イエス様を送り返してきました。
そこで総督ピラトは一計を思いつきました。過ぎ越しの祭りの際には、ロ―マ政府の寛容さを示すため、「囚人を釈放する」習わしがありました。「それじゃあ、民衆に問いかけよう。イエスを許せと民衆が叫べば、さすかのユダヤ教指導者たちも世論を押し切ってまで死罪を要求できないだろうと」。なぜなら、わずか5日前には、「祝福あれ主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光はいと高き所に」(ルカ19:38)と、民衆はイエス様のエルサレム入城を大歓迎し歓喜にあふれかえっていたからです。そこでピラトは獄中に捕らえられていた死刑囚のバラバに白羽の矢を立て、この悪党とイエス様を並べ立たせて「どちらを赦そうか」と問いかければ、答えは明らかだと計算したのです。
バラバという人物は、「あだ名」で「父の子」(バル・アバ)という意味だそうです。ヨハネ18章40節では「強盗」、ルカ23章25節では「暴動と殺人の罪」、マルコ 15章7節では「暴徒たちと共に投獄されていた」とありますから、コソ泥レベルではなく、 ローマ 政府からお尋ね者になっているような重罪犯、テロリスト集団の親分クラスであったと考えられます。親分の子というあだ名の意味もなんとなく分かる気がします。
この悪党とイエス様を民衆の前に立たせて、「2人のうちどちらを釈放するか」と問いかければ、「イエスを許せ」というに違いないと計算しました。そのうえで、懲らしめのためにイエスを鞭打って釈放すればユダヤ教指導者も納得するであろうと。ところが 彼の読みは大きく外れました。群衆はなんと「バラバを許せ」と叫び出したのです。「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」(スタウロウ、スタウロウ・アウトン」という叫びはますます大きくなり、もはや止めることは不可能な状況でした。
ここに至って遂に、総督ピラトはイエス様に死罪判決を下さざるをえなくなりました。自分の責任で、先延ばしをせず、決断しなければならいことも多々あります。総督ピラトの失敗は、自らのなすべき責任を放棄し、あてにならない民衆に全てを委ねてしまったこことにあります。あちこち顔色を伺って自己保身をはかる人間のもろさをみます。ピラトは、イエスには反逆罪に相当するような罪がないと、3回(4.14.22)にわたってはっきり宣言しました。何とかしてイエスを釈放しようと努力をしましたが、結果的に民衆の声に押し流されてしまいました。信じるものを信じるまま貫くことの尊さを、総督ピラトの揺れ動く態度と結末からから私たちは学びとることができます。
「この人の血の責任は私にはない」(マタイ27:24)と民衆の前で手を洗い、責任がないと弁明しましたが、ピラトの名は「ポンテオピラトのもとで苦しみを受け」と使徒信条にも記され、後世に永久に汚名を残すことになってしまいました。
2. バラバ
さて、昔から釈放されたバラバはその後一体どうなったのだろうという想像が掻き立てられます。死を覚悟していた親分バラバは、自分のために身代わりとなったキリストに対して、この方は一体どういう方なのかと興味を強く持ったのではないでしょうか 。キリストの愛に触れ、多く赦されたものは多く愛することができるのではないでしょうか。「互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」(1ペテロ4:8)
スウェーデンの作家 ラーゲルクビストは1951年にノーベル文学賞を獲得しました。受賞の対象となった作品が、バラバのその後の人生を扱った小説「バラバ」でした。映画化されましたので、機会があれば一度ご一緒に皆さんで鑑賞することができればとも思います。
3. 神のみ旨に生きたイエス
イエス様の十字架の死は、人間的視点から見れば、ユダの裏切り、ユダヤ教指導者たちの妬みと悪巧み、ピラトの軟弱さと自己保身、群衆の気まぐれなど複数の要因が複雑に絡み合っていました。
しかし、キリストの十字架は神が導かれた全人類を滅びから救い出すためのご計画でした。イエス様もゲッセマネの園で、血の汗を滴らせて祈りぬき、神のみこころを確信し、自ら進んで十字架の道を歩まれました。カルバリの十字架はイエス様がお生まれになったゴールでもあったからです。人は多くの計画を立てますが 神の御心のみが、必ずなるのです。以下の二つの聖句はこころにしっかりととどめておきたいと願います。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16:9)
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─主の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)
総督ピラト は 何とかして無実のイエス様を許そうとしました。しかし、神はイエスを十字架につけ、全人類を罪と死から救おうとなさいました。ピラトのような一時しのぎの思い付きではなく、神は永遠のご計画の中ですべてを導かれます。人間の悪意を超えて、神は最善をなされます。サタンの悪しき働きを超えて、神は聖い御心を成就されます。
私たちはしばしば、なぜこんな理不尽なことがおこるのか。なぜ正しいものが裁かれ、悪がのさばるのか、神がおられるならなぜこんな悲惨なことが繰り返されるのかと悩むことが多々あります。10月にはいって、イスラエルとカザ地区を支配しているハマスとの間で戦争が起こり、悲惨な状況が放映されています。国際政治情勢は読み解くのに非常に複雑で、簡単に説明しきれるものではありません。にわか軍事評論家になってあれこれ言ううことを控え、むしろ犠牲になり、塗炭の苦しみの中にある一般市民の人々に対して、その痛みと悲しみをともに分かち合う祈りを捧げていきたいと心から願います。私たちができうることには限界がありますが、それでもできうる最善を尽くし、悼みを分かち合いたいと願います。
地上で起こるすべてのことは、神の許しがなければおきません。それほど神のみこころは高く、とこしえです。人知を超えた神のみこころという永遠なる神の視点を人生に持つことは、信仰者がこの激動の時代、終末の悪しき時代にあって、平安を得る秘訣ではないでしょうか。