早速、み言葉に耳を傾けてまいりましょう
今日の聖書個所で、クレネ人シモンという人物が登場します。
彼は北アフリカ地中海沿岸のギリシャの植民地都市クレネの出身者で、「田舎から来て」とルカは表現していますから農業に携わっていた人物とも考えられます。過ぎ越しの祭りのため、に都エルサレムに家族で上ってきたと思われます。
「袖触れ合うも他生の縁」ということわざがありますが、人生にはさまざまな出会いがあります。運命の出会いというようなハッピーな出会いもあれば、あのときあそこに行かなければこんなとばっちりを受けなかったのにと悔やむようなアンラッキーな出会いもあります。シモンにとっても家族にとっても後者の類であったといえます。
1. カルバリの丘へ向かうイエス
さて、ローマ総督ピラトの死刑判決が下り、イエス様はカルバリの丘と呼ばれる公開死刑場へ連行されます。ローマ政府に対する反逆者だけが見せしめのために処刑される特別な死刑が十字架刑でした。当然ながらローマ政府関係者や兵士たちからは罵声が浴びせられ、頭にはいばらで編んだ冠が無理やりかぶせられ、さんざん打ちたたかれました。ユダヤ教指導者や民衆からは「それがユダヤ人の王の成れの果ての姿か」とばかりののしられました。徹夜の祈りと裁判に続いて、イエス様はすでにむち打ちの刑も受けていますので、肉体的にはすでに限界を超えていました。鞭うたれ皮が裂け血だらけになった背中に重い十字架を背負って、ピラトの法廷から死刑場までの長い坂道を歩いて行かれました。大勢の群衆が死刑囚たちの死の行進を取り囲んでいました。その群衆の中にシモンがいたのです。
2. ロ―マ兵に指名されたシモン
死刑場まで自分の十字架を担いで死刑囚は歩いていかなければなりませんでしたが、イエス様は途中で力つき、倒れてしまいました。当時、ローマ兵は重い荷物を住民に運ばせる権利を持っていましたから、代わりに運ぶようにと槍先で指名されれば、従わなければなりませんでした。多くの群衆の中からシモンが指さされたのでした。きっと大柄で体格が良かったからだと推測できます。「ええ、なんでこの俺が」と内心、彼は思ったことでしょう。死刑囚の十字架をしかも、イエス様の血に染まった十字架を身代わりに背負わなければならないとは、「最悪」「縁起でもない」「一生、周囲の者たちから物笑いにされる」「見学などに来なければよかった」などなど複雑な思いだったでしょう。目の前を通りすぎればそのまま終わっていたはずですが、シモンは結果的に、カルバリの丘の死刑場まで同行し、死刑の一部始終を最後まで見聞きすることになりました。
彼はイエス様が十字架で語られた7つの言葉をすべて聞いたことでしょう。「十字架の言葉は、滅びる者には愚かであっても、救われる私たちには神の力です」(1コリン1:18)とありますが、シモンはどのような思いで聞き、目撃し、受け止めたのでしょうか。聖歌113番「きみもそこにいたのか」の歌詞は、罪に嘆き悔い改めに導かれたすべてのクリスチャンが共感し共有する深い体験ではないでしょうか。
3. アレキサンデルとルポスの父(マルコ15:21)
福音書の中で最初に記されたマルコ福音者では「アレキサンデルとルポスの父」と明記されています。名が記されていることは教会ではよく知られている人物であることを示しています。そしてロマ16:13では、「主にあって選ばれたルポスによろしく」とローマ教会の指導者たちにあてられたパウロのリストの中にもその名が記されています。「彼の母は私の母でもある。よろしく」とも書き添えてありますから、パウロはルポスとも親しく、さらに彼の母すなわちシモンの妻とも特別に深い親密な関係にあったと思われます。聖書がそのような親密さを示す場合は、家族同様な関係でありかつ宣教と祈りの同労者であるという意味をもっていると考えられます。
シモンの息子ルポスとロマ教会の指導者ルポスが同一人物かいなかは定かでありませんが、多くのクリスチャンが、シモンの息子たちがローマ教会の指導者としてキリストに仕えたという伝説を受け入れています。無理やり十字架を背負わされたシモンは最も幸いなものとされ、負わされたのではなく、自ら進んで十字架を負って生きるイエス様の弟子となったのではないでしょうか。
4. 自分の十字架を負うて歩む(ルカ9:23)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
イエス様は自分の十字架を取って、私に従いなさいと弟子たちに語りました。もちろんイエス様のような重く、血がしたたり落ちるような十字架は誰にも負えません。しかし、主に従う者たちは一人ひとり、その人が負える十字架を負っているのではないでしょうか。ある牧師が「十字架について語る者は多いが、十字架を具体的に負うて、主に従う者は少ない」と語りました。自分から喜んで十字架を負う者はほとんどいないと思います。シモンが無理やり十字架を背負わされたように、多くは予期せぬ出来事から、自分の十字架との出会いをさせられているのではないでしょうか。それは生まれながらの病気かもしれません、突然の事故による障害かもしれません、認知を患った親に対するいつ終わるかも見えない介護かもしれません、実際にあった事件ですが、牧師の家庭で預かった青年によって牧師の子供が殺されるという悲しい出来事かもしれません。
最初は「とんだ迷惑」「できれば避けたい」「なかったことにしたい」と思うような、無理やり強制的なことがらから始まったとしても、それでもなお、主の御言葉に従い歩み続けるならば、やがては「強制的な恵み」という祝福へと変えられることが多いのではないでしょうか。いえ、ともにおられる主はそのように成し遂げてくださるおかたです。何も背負っていないその人の後ろ姿からは、イエス様の十字架の恵みも見えないのではないでしょうか。
混血児の母と呼ばれたエリサベツ・サンダーホームの創設者澤田美喜さんの生涯を思い浮かべます。戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれました。祝福されずに生を受けた子たちの多くが、父も知らず、母からも見捨てられて、川に流されていく赤子の死体が連日、ニュ-スになっていました。ある時、旅先の汽車の中で、網棚に乗せてあった風呂敷に包んだ荷物が、列車が揺れたとたん、下の座席にいた美喜さんにひざ元に落ちてきました。風呂敷をあけてみると、混血児の赤子の亡骸でした。警察に取り調べられた彼女は大財閥岩崎家の娘であり、夫は外交官として活躍していましたので、嫌疑はすぐにはれました。しかしその時、彼女は心に誓ったのでした。「日本には大勢の祝福されない混血孤児がいる。私の天命はこの子らの母になることだ」と。彼女はその後、2000人の混血児の母としてサンダーホームの運営に尽くしたのでした。
十字架の道は始まりは悲しみと痛みの道ですが、喜びと勝利に通じる道でもあるのです。